自然の法則
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/32581122 【一期一会の光】
Facebook近藤裕子さん投稿記事《花知鳥 鳥待花》
花は鳥を知り 鳥は花を待つ
花が咲くと 鳥たちは花の蜜を求めてやって来ます。
その結果 花は実を結び 生命が受け継がれて行きます。
お互いを知り お互いを認めあうことが 当たり前に自然の中で繰り広げられています。
出会いの春。
人との交流の中で お互いの敬意の心を忘れてはならないと思います。
✤写真は昨日 月ヶ瀬梅林で撮ったもの。梅が咲き初め 鶯の声があちこちで聞かれ、楽しい一日でした。
✜以下は 私に送ってくださいました禅宗の和尚様からのご投稿です。
花無心招蝶 蝶無心尋花 花開時蝶来 蝶来時花開 吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝則
(良寛)
花、無心にして蝶を招き蝶、無心にして花を尋ね 花開く時、蝶来り 蝶来る時、花開く
吾れも亦、人を知らず 人も亦、吾れを知らず 知らずして帝の則に従う
花も蝶も無心に相手を招き、そして尋ねる。そこには何の計らいもなく、選り好みもない。
花開く時、その命の働きによって蝶が来、蝶が来た時、花開く。「そうなっている。」
他人のことは知らないし、人もまた私のことを知り得ない。
それでも、お互い何も知らなくとも、花のように蝶のように、人もまた、すべてが「天地の道理」(自然の摂理)に従っている。
私たちがあれこれ思い悩んでも、所詮「人間の計らいなど大自然の命の働きの前では、一切通用しない」と言うことです。
「あるがまま」流れに逆らわず謙虚に生きたいものです。
http://www.ohta3.jp/o-ta/contents/sketch/5.htm 【自然の法則】より
この良寛の漢詩は、私(太田清人)の好きな詩一つです。
花無心招蝶 花 無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶 無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来 花 開く時、蝶来り
蝶来時花開 蝶 来る時、花開く
吾亦不知人 吾れも亦人を知らず
人亦不知吾 人も亦吾れを知らず
不知従帝則 知らずして帝の則に従う
私はあまりにも、学がありませんが、この詩の中に潜んでいる、自然の法則(自然の摂理)がとても好きです。花と蝶の関係を例え、解かり易く教えてくれています。
自然界は全て自然の法則に従ってあるのです。人間もまた、皆平等のなかで生きているのです。私はそう思います
人間で例えば、心の綺麗な人にはそうした人が自然に集まり、悪き人にはそうした人が自然に集まるのです。
目標(志)に向け、信念を持って努力し続ければ、必ず結果がでて報われる日がいつか来る。怠けていれば、必然的にそうした結果は来てしまう。
それ故に、自分を信じて毎日を頑張り続け継続して行けば、必ずいい出会いがあったり、夢や志を実現できる日が来る様な気がします。
これからも自然体で、この気持ちを忘れずに頑張り続けていきたいと思っています。
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時間をみつけ、偉大なる良寛さんを勉強して、私の人生観を見つめていきたいと思っています。 たまには、目を閉じて、雑念からときはなれてみたいです。
「自身を素直に受け入れ、自然体で生きられるように」
「オータ住環境」 代表のスケッチブックギ
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/22344944 【荘子と芭蕉】
http://www.roushiweb.com/category1/entry3.html 【「無為自然」という考え方】より
この世は無常
ともすれば、悪よりも善、醜よりも美が重んじられるのが世の常。
しかし、老子によれば、「悪があるから善があり、醜があるから美がある」
つまり、物事は全て相対的であって、しかも様々な条件によって常に変化しているのだといいます。だからこそ、世間一般の価値観にとらわれ過ぎることは危険!
余計な情報や一般論に惑わされることなく、言葉でよけいな説明を加えることなく、ただあるがままに、“自然”でいなさい。
そうすれば、世の中の雑音に振り回されずに心穏やかに生きられるよ。
…これが、老子の思想で有名な「無為自然」の考え方です。
あるがまま生きる、「無為自然」な在り方
「聖人処無為之事、行不言之教」(道にしたがう賢者は、よけいな振る舞いをせず、言葉に頼らない教えを行うものだ)
老子によれば、「聖人」=道を知って道に従う賢者を意味しています。
「道」とは、「これが道だ!」と説明できるようなものではなく、形もなければ音もない、何にも依存せず、何にも左右されないもの。
だからこそずっと変わらない、この世の根源のようなものです。
どんな出来事があっても、言葉で余計な説明を加えて分かったような解釈をしたり、
物事に干渉し過ぎたり、余計な作為をしたりせず、ただこの“道”に従い、自然体であること。
…老子は、そんな「無為自然」な生き方ができる人こと“賢者”であり、そういった生き方が理想的だと考えていたようです。
確かに、会社の中を見回してみても、何かことあるごとに「俺がやったんだぜ」「俺のおかげなんだぜ」…といわんばかりのアピールをする人がいる一方で、手柄を立ててもそれを鼻にかけるでもなく常に涼しい顔で次の一手を考えている人っていますよね。
結果的には後者のほうがより大きな仕事を成し遂げますし、なにより人にも慕われます。
ことさらな作為はしないこと!
「道常無為、而無不為」(道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)
老子の教えの根幹を成す「無為自然」という考え方ですが、これは決して、「何もせずにボケっとしているのが良い」という意味ではありません(笑)。
「無為」=為すこと無しの「為す」とは、“わざとらしい振る舞い”のことです。
これは、政治家を例に挙げると非常に分かりやすいですよ。
例えば、「私が当選したら、こんなことも、あんなことも実現してみせましょう!」
…なんてマニフェストを掲げる政治家は、道に従う賢者ではありません。
老子の言う「無為自然」の理想を実現できるのは、わざわざ言葉で説明しなくても、
「気付いたら人々の生活が穏やかになっていた」「自然と穏やかな暮らしに導かれていた」
…と、自然に天下を治められる政治家。
そしてそれを、決して自分の手柄になどしたりしない政治家です。
無為自然、物事がおのずと善い方向に導かれるような政治が理想形なのです。
(「政治家=名誉職」という意識が根強い日本では、まだまだ難しいかもしれませんが)
少子高齢化、原発問題、年金問題、領土問題、TPP…と、
国内外で問題が山積している今だからこそ、
無為自然な政治をスマートに成し遂げてくれるような政治家の登場を期待したいですね。
果たして、そんな“できた”政治家が今の日本にいるのかどうかはともかくとして(苦笑)