路傍の花に自分を見る
https://www.es-inc.jp/library/mailnews/2006/libnews_id001774.html 【幸せになる「もったいない」話 路傍の花に自分を見る】より
日本のありもの探し
日経BPの「未来生活」という素敵なサイトがあります。レスター・ブラウン氏へのインタビューも載っています。私も、辻信一さんたちと並んで、エッセイを書かせてもらっています。その第3回をご紹介します〜。
http://premium.nikkeibp.co.jp/mirai/index.shtml
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「枝廣淳子の幸せになる『もったいない』話」
第3回 路傍の花に自分を見る
私は京都生まれですが、同じく京都出身の母はいつも、「お豆さん」「お麩さん」「お稲荷さん」「お揚げさん」「お芋さん」「小芋さん」と、食べ物に「さん」づけします。食べ物だけではなく、お寺は「お寺さん」ですし、おもしろいなあ、と思います。(「Mr. Bean」という映画はありますけど、食べる豆に「さん」付けするなんて、英語ではとうてい考えられない発想でしょう!)
それから、もう一つ、おもしろいなあ、と思うのは、「供養」です。祖先や亡くなった人を「供養する」とよく言いますが、日本では、こうした「人」だけではなく、「モノ」を供養することもあります。
使わなくなった数珠や、満願成就のだるまを供養する「数珠供養」や「だるま供養」を行うお寺があります。仏様に関係するものはポイッとは捨てられない、という気持ちが背景にあるのでしょうね。各地で行われている「人形供養」も、文字どおり「人の形」をしているし、思いや思い出が詰まったものですから、人の供養に準じる感じなのかもしれません。
それ以外にも、もっとフツーのモノにも、供養があるのですよ。たとえば、よく知られているのは「針供養」。いつもお世話になっている針に敬意と感謝を示すために、針を休め、折れた針や古い針を豆腐やこんにゃくに刺して、神社に納めてお祓いしてもらう、という儀式です。「茶筅(ちゃせん)供養」や「筆供養」、「しゃもじ供養」もあります。
ここで供養されるモノたちは、「命のない物体」や「人間の役に立つだけの存在である無機的な道具」ではなく、「これまで、いっしょにやってくれて、ありがとう〜!」と、まるで仲間か友だちに呼びかけるような「相手」のような気がしませんか?
おもしろいところでは、「はんこ供養」もありますし、名古屋の大須電気街に位置する万松寺では「パソコン供養」も。家庭で不要となったパソコンを、単に「処分」するのではなく、愛着のあるものとして厳粛に「供養」する、という発案だそうです(現在は行われていません)。
それから、「ワインのコルク供養」に、「パチンコ供養」。古くなったパチンコ台を供養するのは、パチパチの日(8月8日)ですって。(ほかの供養はなぜか11月23日が多いような……。勤労感謝の日だから? この日は自分の誕生日なので、何となく気になります。^^;)
そして、私の知るかぎり、欧米ではこのような儀式は聞いたことがないので(もしご存じだったらぜひ教えて下さい〜)、本当におもしろいなあ、と思うのです。
●生けるものも生きていないものもすべて「つながっている」
「アニミズム」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか? アニミズムとは、自然の万物の内に、アニマ(精霊、霊魂)が宿っている、という考え方です。日本の神道の神は、「八百万(やおよろず)の神」と呼ばれますが、山にも川にも、岩にも、動物にも植物にも、火や風や雷や風にも、神が宿っているという感覚は、アニミズムに立脚しています。
アニミズムは、原始的であるとか遅れているとか考えられていた時代もありましたが、私はこうしたアニミズムの感覚が、人と同じようにモノを供養したいと思ったり、モノにも人と同じような敬称をつけて呼んだりする私たちの感覚に脈々と流れており、「もったいない」という大事な思想・言葉につながっているのではないかと思うのです。
地球上の生物の命は、無生物から生まれました。それまで生命のなかった世界に生命が誕生したのです。「生命と非生命は連続している」。山尾三省さんの言葉です。そして、人間は――私たちはたまたま人間に生まれたので、自分たちのことを特別であるかのように偉そうに考えたりしますが――海に誕生した原始的な生命と連続しているのだなあ、だから広々した海や流れる川を見るとほっとするのかなあ、と思います。
生きとし生けるものも生きていないものも、すべてつながっていて、どれが偉くてどれが下等なんてことはなく、松の木にも大岩にも雷にも畏敬の念を感じた祖先たちの「神道の感覚」が自分の中にも脈々と流れていることをうれしく思います。
●何かに「生かされている」という感覚
自分はひとりじゃない、数知れぬ生命や非生命の大きなつながりの網に支えられているんだ、と思えると、精神的にも不安がなくなります。「生かされている」という、これまた「もったいない」と同じぐらい英語にしにくい日本語があります。私の大好きな言葉です。
なぜ「生かされている」が英語になりにくいのは、「生かす」の受け身形にしたとき、英語の発想だと「○○によって」「○○の力で」がほしくなるからです。「神によって生かされている」というように。
でも私が「生かされている」というときは、何か特定の「これ」というものに生かしてもらっている、というよりは、それこそ「八百万の神」としか言いようがない、過去から未来までの数知れぬ生命や非生命の大きなつながりに生かされている、という感じなのです。ですから「by?」と促されても、黙ってしまう……。
特定の「これ」がないため、日本人の多くが「無宗教」とされますが、言葉にならないだけで、「自分より大きな何かに生かされている」という感覚は、ある意味宗教とも言えるので、「無宗教」とはちょっと違うのだけど、といつも思っています。
私は宗教の専門家ではないので、環境分野の通訳を通じて感じていることからしか述べられませんが、この対極にある(そして今度は日本語にできない)英語の言葉が「stewardship」です。
steward というのは「執事」ということですが、環境分野でこの英語が出てくるとき、その思想的な背景として「人間は神から選ばれて、この世界の世話をするよう、依頼を受けているので、他の生物や無生物などの地球環境のお世話をしっかりしなくてはならない」という感じがあります。
「神-人間―その他の生物や無生物」がそれぞれ独立に存在し、格付けがあり、「依頼する者」-「依頼される者」、「世話をする者」-「世話をされる者」という厳然たる区別がある。神も人間もその他の生物や無生物も、ある意味混沌といっしょになっている神道的な世界とはかなり違う世界です。
●芭蕉とすみれ草
話は変わりますが、中学時代の国語の先生に、指導要領はまったく無視して、半年ほど俳句や短歌ばかり教えてくれた先生がいました。受験を心配する親には不評でしたが、私はこの先生の授業が大好きで、短い文字の列から目眩がするほど広がる世界に圧倒される快感を教えてもらった気がします。
期末テストに、お馴染みの「山路きて なにやらゆかし すみれ草」という俳句を解説せよ、という問題がありました。中学生だった私は「芭蕉は山道を歩いてきて、人目につかないようなところで、ひっそりと、でもしっかりと根を張って生きているすみれ草を見て、心が惹かれた」というような答えを書いた覚えがあります。
この答えに先生は丸をつけてくれ、何もいいませんでしたが、それから数年たって、大学生になっていた私は、ある日はたと気づきました。「芭蕉はすみれ草に自分の姿を――実際の、そしてこうありたいと思う姿を――、見たんだ! あの句は、自分への励ましの歌だったのか」と。
そして、もったいない研究をはじめてから、ふたたびこの句の世界に思いを巡らせたとき、「芭蕉がゆかしく感じたのは、すみれ草の、そして自分の「もったい」(仏性)だったのじゃないかな」と思ったのでした。
客観的に分析的に、距離を保ちつつ切り刻むような関係性ではなく、寄り添うような、自分がそのものに溶けて一体化するような――胡蝶の夢のごとく、芭蕉がすみれ草であり、すみれ草が芭蕉だったのでしょう――そんな世界が「わかる」(言葉で説明できないからと言って、その世界が存在していないわけではないのです)私たちって、幸せだなあ、と思うのです。
数年前に、来日されたダライラマのご講演を聴いた友人が、「われわれ皆、それぞれがブッタになれる種を持っているのだ」という言葉に感激した、と教えてくれるのを聞いて、これが「もったい」ではないかな、と思いました。この種を見失ってしまって、生かせないことが「もったいない」ことなのだ、と。
最終回は、自分の「もったい」を活かし、モノの「もったい」も生かす、「もったいある(?)生き方やあり方」について思いを馳せてみたいと思います。
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最終回の第4回は、3月11日公開予定だそうです。何を書こうかな〜。(^^;