俳句を愛し、禅に共鳴したジョン・レノンの魂が生んだ「イマジン」と日本との絆
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00979/ 【生誕80年・没後40年:俳句を愛し、禅に共鳴したジョン・レノンの魂が生んだ「イマジン」と日本との絆】より
広田寛治さんがビートルズのレコードを初めて買ったのは1965年に発売されたシングル盤「ヘルプ!」だ。前年に公開された映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(A Hard Day’s Night)を見て、その音楽の新鮮さに魅了されていた。「当時は中学生で、歌謡曲ばかり聞いていたので、激しいリズムに驚きました。それにアイドルっぽさがあって、親しみやすさも感じました」
メンバーの中では特にジョージ・ハリスンが好きだった。だが、80年12月8日、ニューヨークでジョン・レノンが狂信的なファンの凶弾に倒れた後に初めて、ジョンの「すごさ」に気付いたと言う。
「当時は大学院で東洋史の修士論文を書いていました。昼過ぎにテレビをつけたら、ジョン・レノンが撃たれたとテロップで流れ、それから間もなくして、ニュースで死亡したと知った。ショックで修士論文どころではなくなりました。当時運営を手伝っていたファンクラブが出す追悼号を僕が担当することになり、ジョンの生涯を作品に沿って紹介するアプローチにしました。自分のことを歌っている作品がほとんどなので、歌を並べ替えていくと、その人生が語れるんです」
改めてジョンの人生をたどるうちに、オノ・ヨーコと出会ってから日本文化への関心、理解を深め、想像以上に禅や俳句の世界に影響を受けていることを知って感銘を受けたという。
開催中の「DOUBLE FANTASY - John &Yoko」東京展は、英国リバプールで70万人を動員した展覧会。東京展独自のコーナー「Japan Exclusive」では、日本との絆を伝える特別コレクションが展示されている
開催中の「DOUBLE FANTASY - John &Yoko」東京展は、英国リバプールで70万人を動員した展覧会。東京展独自のコーナー「Japan Exclusive」では、日本との絆を伝える特別コレクションが展示されている
「天井の絵」の“YES” に共鳴
ジョンはかなり前から、日本に好奇心を抱いていた。1965年英国でビートルズの単独取材に成功した元『ミュージック・ライフ』編集長の星加ルミ子さんは、ジョンから「スモウレスラーやウキヨエ」について質問された。アートスクールに通っていた頃に友人が日本の写真集を持っていて、その中に“beautiful”な力士の写真が載っていたのだという。そして、「日本には独特な文化があるのでぜひ行ってみたい」と言ったそうだ。
翌年実現した来日公演の際には、厳重な警備をかいくぐって外出し、古美術品を購入している。同年11月ロンドンで、ヨーコの個展の内覧会を訪れた。最初は彼女のコンセプチュアルアートを懐疑的に見ていたジョンだが、やがてアーティストとしての感性に共鳴する。決定打となったのは、「天井の絵」という作品だった。来場者は、はしごを登って、天井につるされた白いキャンバスを虫眼鏡で見る。そして、そこに小さく描かれた「YES」を発見するのだ。ジョンはこの肯定の言葉に心震わせたという。開催中の「DOUBLE FANTASY - John &Yoko」東京展では、ジョンとヨーコが出会うきっかけとなった作品「リンゴ」「釘を打つための絵」、そして「天井の絵」を展示している。
アートを通じて、2人の交際は始まった。「68年頃には、ビートルズのそれぞれの音楽志向の違いがはっきりしてきて、メンバー同士の衝突も多くなりました」と広田さんは解説する。「ジョンはヨーコと一緒に音楽活動をしたほうが楽しいと明言して、69年3月の結婚を機にビートルズと決別する道を選びます」
過剰さをそぎ落とした俳句的な世界へ
1960〜70年代に全盛期だったヒッピー・ムーブメントの中で、ジョージ・ハリスンがインド哲学に魅了されたように、ジョンもインド哲学や道教などの東洋思想に影響を受けた。中でも禅、俳句の世界観に強く引かれていく。
「60年代当時、鈴木大拙による英語の禅に関する著作を、精神性を志向する若者の多くが読んでいました。ジョンが読んでいたとしても不思議ではありません。また、ヨーコから具体的にどんな影響を受けたのかは分かりませんが、彼女と出会ってから俳句に親しむようになった。以前のサイケデリックで装飾過剰な作品は影を潜め、「アクロス・ザ・ユニバース」「ビコーズ」など、簡潔で詩的な言い回しにシンプルなサウンドが特徴的になっていきました」
71年に『ジョンの魂』(John Lennon/Plastic Ono Band)が日本で発売された際(英国では70年12 月)のインタビューでジョンは、「最近、禅や俳句から影響を受けている」と語っている。「禅の精神で自分は“シブい”アルバムを作ったと言っています。また、『今までに読んだ詩の形態の中で俳句は一番美しいものだ。だから、これから書く作品は、より短く、より簡潔に、俳句的になっていくだろう』とも語りました。人間の心を本当に伝えるのはシンプルな言葉なのだ―そういう境地に達したのでしょう」
芭蕉の短冊に感動し、歌舞伎に涙する
1971年1月、ジョンとヨーコはプライベートで日本を訪問した。藤沢市辻堂にあるヨーコの実家を訪ね、京都の嵯峨野、比叡山などを散策した。京都では世界的な俳句ブームのきっかけとなったレジナルド・ブライス著の『Haiku』をずっと読んでいたという。
東京では、湯島の古美術店羽黒洞を訪れている。 店主の木村東助(1901~92)は、「ウキヨエが見たい」とフラッと店に入ってきたジョンとヨーコのことを、最初はよく知らなかった。後年、ジョンとの出会いを次のように回想している(以下参照元:『文藝別冊ジョン・レノン フォーエバー』2020年10月、木村東助インタビュー動画など)。
とにかくゆっくり絵を見せてあげようと、二人を貴重な収集品が置いてある自宅に案内した。すると、ジョンは松尾芭蕉、小林一茶、良寛らの俳句の短冊、白隠と仙厓の禅画など、次々に欲しいものを買い求めていく。「良い目を持っているのか、頭がおかしいのか」と木村は判断に苦しんだ。だが、芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」の短冊を見つけたジョンは、大事そうに短冊を抱きかかえ、こう言ったのだ。「この芭蕉の句のために、ロンドンに帰ったら日本の家や茶室を建て、日本人の心になってこの芭蕉の掛け軸を朝・夕に見て楽しむから、僕が買って持ち帰っても、どうか嘆かないでほしい」。木村はその言葉を聞いて、本当にうれしかったと言う。「日本では芸術といえば、貴族とか権力とか財力とかにご機嫌をとったものが優れていると思い込む習慣があります。ところが彼は、そんなものには見向きもしない。私の扱っている庶民の芸術に最も共鳴してくれたのが、元ビートルズのジョンだったのです」。50年店を営んでいるが、なんの説明をしなくても作品の良さを理解する客はジョンが初めてだったという。
権威を嫌う反骨の人だった木村は、ジョンがすっかり気に入った。1時間半ほど時間があるというので、2人を歌舞伎座に連れていく。華やかな演目を見せたかったが、上演中だったのは歌右衛門と勘三郎の「隅田川」だった。子どもをさらわれた母親が日夜狂気のように探しまわるが、子どもは殺されて隅田川河畔に埋められていたという陰惨な物語の「清元」(せりふはなく、三味線の伴奏のみの演目)だった。これは困ったと思ったが、ジョンの頰にとめどもなく涙が流れ出ているのを見る。その涙を、ヨーコが優しく拭ってやっていた。ストーリーも清元もジョンに分かるわけがない。だが、その後に当時人気の若手だった海老蔵の華やかな舞台を少し見ただけで、ジョンは「ノー、見る気がしない」と言ったそうだ。ジョンにとって目に見えるものよりも、心の目で見ているものが大事なのだろうと思ったと木村は語っている。
民衆に禅を説いた白隠・仙厓と「イマジン」
白隠、仙厓は、誰でも悟りを開けるという考え方のもとに民衆に布教した江戸時代中期の臨済宗の禅僧で、ともに独特な禅画を残している。それぞれの禅画を購入したジョンは、「白隠と仙厓に関する知識があって、その考え方に共鳴した可能性もある」と広田さんは言う。「俳句への理解も1969年以降どんどん進化しました。ジョンが好んだのは、禅の心を反映した俳句―つまり、宇宙の中のちっぽけな自分という視点を持ち、自然と一体化して愛し、心を震わせることを詠んだ句です」
「1971年、『ジョンの魂』の後に発表した曲「イマジン」も、俳句のルーツである連歌のような印象を受けます。また近年、禅の僧侶たちの中で、この曲の世界は、白隠が『南無地獄大菩薩』で説いた『地獄も極楽も人の心に映ったものにほかならない』という教えに通底していると指摘する人たちがいます」
臨済宗中興の祖といわれる白隠と同様に、仙厓も全国行脚して民衆に布教した。権威を嫌い、自由奔放な生き方で知られる。博多にある聖福寺の住職になってからは、荒廃した伽藍(がらん)の復興に力を注ぐかたわら、ユーモラスな禅画を多く描き、庶民に親しまれた。神道、仏教、儒教など宗教の違い、仏教宗派の違いなどにこだわらない、融和的な思想の持ち主だったとされている。
ジョンは「イマジン」が、「想像しなさい」「聞きなさい」といった言葉による指示(インストラクション)が特徴的なヨーコの詩集『グレープフルーツ』に触発されたと認めている。「西洋的なユートピア思想やヨーコの影響はもちろんあります。ただそれだけではなく、心に何の恐れも持たず、自由に生きていいんだよと分かりやすく民衆に説いた白隠と仙厓の思想を合わせて、ジョンの「イマジン」が生まれたのではないかと思います」
日本に長期滞在した「主夫時代」
結婚後、さまざまな平和運動を世界各地で展開していた2人は、アルバム『イマジン』を発表後に米国ニューヨークに拠点を移し、急進的なベトナム反戦運動に関与する。あくまでも非暴力の運動を提唱、実践していたジョンだが、その影響力に警戒心を抱いた当時のニクソン政権は国外退去を命じる。2人は撤回を求めて闘い、米国に踏みとどまった。
長い闘いの末、1975年10 月国外退去命令が取り消され、同月、一人息子のショーンが誕生した。日本を再訪したのは、それから2年後のことだ。77年5月から10月まで一家で滞在した。その後も78年に3カ月、79年に1カ月と、のべ9カ月を日本で過ごし、東京、湘南、軽井沢、箱根、京都などを代わる代わる訪れた。日本で気兼ねなく過ごせる別荘地を探していたともいわれる。
「いまであれば、ツイッターであっという間にジョンの目撃情報が全国に拡散したでしょう。でも、当時は、来日していることも知られず、ほとんどニュースになりませんでした」
ジョンはショーンが5歳になるまで音楽活動はしないと宣言し、ずっと「主夫」役を務めていた。「“主夫”は今でこそよく聞く言葉ですが、世間では認知されていなかった。影響力のある著名な男性が子育てに専念すると明言したのは、ジョンが初めてだと思います。そして、陰陽や禅の思想で子育てをしていた。例えば、食事はジョンが作っていましたが、陰陽を原理とするマクロビオティックの、玄米や豆類を中心とする食事法を実践していました」
「DOUBLE FANTASY - John &Yoko」展では、日本で撮影した家族写真や、ジョンが日本語を学ぶため、ローマ字とイラストで日本語の単語や表現をつづったスケッチブックの原画を見ることができる。中には、どことなく禅画の雰囲気が漂うイラストもある。
左:「ジョン、ヨーコ、ショーン 1977年家族旅行」(Photo by Nishi F. Saimaru ©Yoko Ono)/右: 79年軽井沢にて(Photo by Nishi F. Saimaru ©Nishi F. Saimaru & ©Yoko Ono)/「DOUBLE FANTASY - John & Yoko」東京展より
左:「ジョン、ヨーコ、ショーン 1977年家族旅行」(Photo by Nishi F. Saimaru ©Yoko Ono)/右: 79年軽井沢にて(Photo by Nishi F. Saimaru ©Nishi F. Saimaru & ©Yoko Ono)/「DOUBLE FANTASY - John & Yoko」東京展より
日本語練習スケッチ・ブックの原画から2点「WABISHII」「SABI」/撮影:山中慎太郎(Qsyum!)/DOUBLE FANTASY - John & Yoko」東京展より
日本語練習スケッチ・ブックの原画から2点「WABISHII」「SABI」/撮影:山中慎太郎(Qsyum!)/DOUBLE FANTASY - John & Yoko」東京展より
5年のブランクの後に『ダブル・ファンタジー』(1980年11月17日英国で発売)が出た時は本当にうれしかったと、広田さんは振り返る。「レコード会社から届いた試聴テープを聴いて、夫婦関係や子育て、男女関係について、正直にリアルに表現したアルバムだと感動しました。これからもっとジョンの音楽が聴けると喜んでいた矢先に、殺されてしまった」
「禅や俳句が好きだとうわべで言うのではなく、思想を理解し、生き方でも実践して曲を作っている。そんなミュージシャンはまれです。もっと長生きしていれば、日本に別荘を持ち、国内の音楽界や芸術家と交流する機会も増えたはずです。それに、ジョンは日本語で俳句を作りたかったのではないかな。その可能性が奪われてしまったことも残念です」