【芝①022】日蔭町
2017.12.02 14:18
町番号:芝①022
町名:日蔭町 一・二丁目
読み方:ひかげちょう Hikagechō
区分:俗称→町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1932(昭和7)年11月30日
冠称:なし
現町名:港区新橋二・三丁目
概要:江戸期から俗称地名として定着していた。芝口二・三丁目、源助町、露月町、柴井町の西側裏の新道。この新道は町内沽券地のうちで、1664(寛文4)年、地主が地尻を2間ずつ縮めて道とした(町方書上)。西側は武家屋敷で、道幅が狭く、日当たりが悪いところから名付けられたもの。この名称は太平洋戦争前まで使われていた。現行の新橋二丁目19番と20番の間から新橋六丁目22番と23番の間まで、新橋三~五丁目を貫いてほぼ南北に通る道の東側でかなり広い。俗称時代の日蔭町(日陰町・日影町)は現在の第一京浜とその1本西の道の間であった。
正式に「日蔭町」として起立したのは北部のその西側の地で、『江戸切繪圖 : 俚俗 : 芝口南・愛宕下』では中川修理大夫中屋敷が一丁目(「○後に日蔭町」とある)、その南の片桐成三郎屋敷が二丁目である。なお、JRの日陰町橋高架橋があるのは二丁目である。「日陰町」、「日影町」とも書いた。
1872(明治5)年、中川修理大夫中屋敷と片桐成三郎屋敷を合併して、それぞれ一・二丁目として成立。同年の戸数29・人口134(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府芝区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市芝区に所属。
1932(昭和7)年12月1日、帝都復興計画の一環により、一丁目が新橋二丁目、二丁目が新橋三丁目にそれぞれ編入となり消滅。
撮影場所:日蔭町二丁目
撮影地:港区新橋三丁目25番22号(JR日陰町橋高架橋 七兵衛)