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天竜楽市

水窪石~縄文のヒエログリフ

2017.12.02 14:29

「我らの理想郷であるこの平地を占領している敵、我らのきずいた豊かな村や町を奪っている畜生めらを何年かかっても襲え、神々は我らをお守りくださっているぞ」
 水窪民俗資料館にレプリカが展示されている「水窪石」には(同館の説明文に拠れば)上記のような文言が古代フェニキア文字で刻まれているそうです。
 やはり古代フェニキア文字で「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれているという説もあります。


「水窪石」は昭和35年に水窪町の水窪遺跡(縄文時代の遺跡、紀元前600年頃と推定)から出土し、発見当時は神代文字の刻まれた縄文時代のペトログリフとして大きな話題になりました。
 フェニキア人は紀元前15~8世紀にレバノン周辺を拠点に地中海全域で海上交易を行なっていた海洋民族で、レバノン杉で船を作り材木や樹脂の輸出を行なっていました。
 天竜人も天竜杉を伐って筏を作り材木や漆を売って生活していたのでフェニキア人の子孫かもしれませんね?


 天竜川と信濃川の分水界となっている長野県の和田峠は黒曜石の産地として知られ、天竜区域でも和田峠の黒曜石を使った石器が使われており、上阿多古の長沢から発見された黒曜石製の槍先は旧石器時代末期のものとされています。
 伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、南関東の二万年前の旧石器遺跡から発見されており、既にこの時代に人々は船を作って海を渡っていたのではないかと云われています。


 フェニキアは紀元前8世紀頃にアッシリアの圧迫により衰退しますが、同じ頃同様にアッシリアの攻撃によりイスラエル北王国が滅びイスラエルの失われた十支族が世界へ散らばったと云われます。このうちの一部或いは全ての支族が日本へやって来たという「日ユ同祖論」が根強く主張されていますが、天竜川の源である諏訪大社(上社にある池が諏訪湖、天竜川の源流と云われます)の御頭祭で明治初期まで行なわれていた神事は古代イスラエルの祭事に似ているという説があります。


 エジプトのアメンホテプ四世(紀元前1362年?~1333年?、別名イクナートン)を信奉する人達がアマルナ革命の崩壊後イスラエルに移り、その後失われた十支族と共に日本に渡って出雲族(クナト=イクナートンを信仰していたと云われる)の祖となったという説もあり(最終的に国譲りによって大和族に敗れた出雲族は天竜川を遡って諏訪に逃げ込んだ)、アッシリアの圧迫から逃れて日本へやって来た人達の中にはフェニキア人もいたかもしれません。


 フェニキア人の都市国家の一つテュロスはイスラエル王のダビデやソロモンと友好関係を結んでいた(フェニキア人とイスラエル人には軋轢が生じた時期もあった)と云われます。また、フェニキア人は青銅器から鉄器へと移行し良質の鉄を求めていたとされ、天竜川流域の鉄鉱資源に目を付けていたのかもしれません。フェニキアの航海技術は高く初めてアフリカを周航したとも云われています。


 近年では稲作の伝播が縄文時代前期(紀元前5000 - 3500年前)に遡り、縄文人は中国の長江流域と船で往き来していたのではないかという説もあります。島根県の隠岐で産出された黒曜石はウラジオストクまで運ばれていたそうです。
 古代の人々は私達が考えるより広範囲に移動していたのかもしれません。


 天竜川流域には古代のロマンがありますね!