vol.9 石原優希さん(24)【「何くるないさ」の気持ちを持って、一歩を踏み出すこと】
神奈川県川崎市出身。早稲田大学商学部に入学後、ビジネスコンテストを運営する学生団体の営業チームで活躍。その後もアメリカボストン大学での留学や合計80台の車で行ったヒッチハイクなど、学生時代に多くのことに全力で取り組む。新卒で総合商社に入社し、現在社会人二年目。
商社で働く傍らコーチングを学び、現在月に平均20人もの学生に対しコーチングを行っている。
*石原さんのこれまで
◇ずっと、「嫌なヤツ」だった。
—石原さんは、小さい頃はどんな性格だったのですか?
実は中学校の頃、ちょっと太っていて。今と真反対ですごくネクラでした(笑)
勉強だけ得意だったので、他の子に自慢していたら「ナルシスト」って言われるようになってしまって。中学校はあまり楽しかった思い出がないんですよ。
—そうだったのですね。高校は地元の学校ですか?
県立の学校に通っていましたね。受験の時はかなり勉強しました(笑)
高校に入ってからは憧れの先輩が誘ってくれたことがきっかけで、新たに音楽に挑戦し始めました。ここからクラシックギターのアンサンブル部に入って、猛特訓の毎日が続きます。
結果としては、全国大会で二回優勝をすることができ、
これが自分で初めて掴み取った成功体験でした。
でもそれは表面的なもので、内面的には同時にすごく辛い時期でもありました。
というのも、部活の同学年でとても仲が良く信頼していた女の子に、
「優希ってナルシストだよね。性格を直したほうがいいと思う。」
という言葉をもらったんです。かなりショックでした。
—信頼している方からの一言だからこそ響いたのですね。
だからこそ、この性格を変えたい。と思いました。その次の日からというもの、部活中に引っかかる物言いをしたら、その子に指摘してもらうという、いい意味での苦行が始まりました(笑)
初めは部活中何度も指摘されていたのですが、だんだんと指摘が減っていって、自分の感情や言葉を少しずつコントロールできるようになったんです。その時には、前と比べ物にならないくらい友達が増えていて。
性格って、変えようと思えば変えられるんだということを、この経験から学びました。
◇人との出会いが、偶然が、未来への道を作った学生時代
—大学はどうして早稲田を選ばれたのですか?
色々な価値観が混ざり合い、面白い人たちが集まっている学校というイメージがあったからです。高校時代もいろんな価値観を持った子が集まっていたからこそ、すごく楽しくて。大学もそういう環境で過ごしたいという気持ちが強かったんです。
学部は社会に出てから必要なビジネスを勉強したいと思って、商学部を受験しました。
入学当初から留学に行くことを決めていて、このころから漠然と世界を股にかけてビジネスができる商社の仕事にはすごく興味がありました。
—入学当初から海外志向だったのですね!そうなるとサークルは国際系のところに入られたのですか?
英会話サークルなども考えてはいたのですが、最終的に偶然声をかけてもらったOVAL JAPANという学生団体に入りました。
日中韓の学生が協力して学生のための国際ビジネスコンテスト
を開催している団体で、新歓の時に見た先輩がものすごくカッコよくて、自分もそうなりたい!
と思って入ったのがきっかけですね。
—石原さんはその団体でどのようなことをされていたのですか?
営業チームのリーダーをしていました。
企業からスポンサーを得るために本当に日々忙しく奔走していました。
ノルマは300万円で、活動をしていた一年間で500枚以上の社会人の方の名刺をもらっていましたね(笑)
自分では本当にがむしゃらに頑張っていたつもりなのですが、今思い返すと独りよがりに活動してしまっていたなあと思います。5人いた営業メンバーのリーダーとして失格だったなあと。
ーというのは?
結果が出そうになっては一喜一憂して、面白そうな仕事は全部自分でやろうとして、とにかく動くんだって自分の足元ばかり見て、口先ばっかり。
そんなやつがミーティングだって言ったって聞いてくれる訳がない、チームワークなんて欠片もなかったんです。
当然、締切が近づけば近づく程に焦って、取り乱して、一時期は精神的に相当参ってました。
結果としては、団体の頼りになるメンバーの数人が協力してくれて、やっと200万円が集まって、みんなにそのことを伝えた時に
「で、100万円どうするの?」って聞かれたんです。あの時のショックは今でも鮮明に覚えてます。
—リーダーとしてまとめるのって本当に大変ですよね。それから石原さんは留学に行かれたのですか?
そうです。2年生の夏休み明けから3年の夏前まで、1年間アメリカのボストン大学に交換留学をしていました。
◇開発学を学び、夢を探したアメリカ留学
—そこでもビジネスの勉強を?
もともとビジネスの勉強をしようと思って、実際に授業も取っていたのですが、たまたま開発学*の授業を受講したら、見事にハマってしまって。そこから留学中は主に開発学を勉強していました。
同時に、同じ大学の先輩で国際協力を軸に精力的に活動されていた方に声をかけてもらって、ボストン日本人開発コミュニティーに入れてもらいました。開発学を最先端で学び、実際に社会で活躍されている方々と交流をするコミュニティーで。
ここでは、JICAや国連で実際に国際協力の現場で活躍されている方々とお会いすることも多く、すごく刺激を受けました。
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*開発学(かいはつがく、英語: development studies、フランス語: l'Étude de Développement、学問として認めない立場からは国際開発論)は、国際関係学の一分野。 国際的な経済格差(いわゆる南北問題)を是正するために、発展途上国の貧困解消の方法や、国家間の開発援助政策を研究する学問である。国際開発学という独自のディシプリンは存在せず、イシューの学問である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/開発学
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—すごい環境に身を置かれていたのですね!!
若さが武器になることを思い知りました。(笑)
19歳の青臭い若造がプロフェッショナルの集まる勉強会に飛び込んできた という事実に周りが興味を持ってくれて、多くの大人の方々に可愛がってもらえましたよ。
—このコミュニティーに入ってみてどのようなことを感じましたか?
自分の常識が思い切り覆される体験ばかりでたくさんのことを感じました。
ここでは誰もが「〇〇会社で働いています」ではなく、
「国際法・国際政治の研究をしてます。」
「公共政策を学びながらアフリカで外科医をやってます。」
などと、「自分に何ができるか」「個人として何ができるか」を話していて。それがすごく衝撃でした。
メンバーから恒常的に「石原くんは何がやりたいの?」と質問をされる環境だったので、
自分の夢やビジョン、できること、やりたいことってなんだろう…と本気で考え始めるきっかけになりました。
—なるほど。日本に帰ってからはどんなことをしていたのですか?
OVAL JAPANに誘ってくれた先輩に紹介いただき、大手の不動産会社で長期のインターンをさせてもらいながら学校に通っていました。
ディベロッパーのお仕事をそばで見ることができる環境だったので、すごく刺激的でしたね。
◇80台近くの車に乗り込んだ!ヒッチハイク旅行
—すごい!!石原さんの努力されている姿を見て、周りの方々もたくさん力になってくれたのですね。
周りの方々には本当に恵まれていました。もともと喋るのが大好きな性格なので、初対面の方と話すのも好きだったんです。そのことが高じて
ヒッチハイクにもハマりました。
極論を言うと、目的地はどこでもよくて、偶然乗り合わせた人との新しい出会いがすごく好きだったんです。
—どんな出会いがありましたか?
友人と海老名PAで静岡の温泉に行くために、車を待っていたら、
二人組みのおばさまに「なんでそんなにつまらない所に行くの。私たち京都まで行くけど乗っていく?」と言われて目的地をその場で変更し、乗って行ったことがありました(笑)。
帰り道をどうしようか悩んでいたら、「これ持って行きな」って言われて名刺の裏に電話番号が書かれた紙をくださって、帰りもその人たちと帰ったんです。つまり往復同じ車一台で。笑
その方たちが働くバッグギャモン協会のイベント(実は彼女たちは、普段は芸人さんをやっているみたいなんです笑)
にはスタッフとしてお手伝いに行ったり、その後も関係が続いていて、ますます面白いなと。
ヒッチハイクは、結局就活直前の2月まで続けて、80台近くの車に乗り込みました。笑
◇就活の軸は「自分の環境が目まぐるしく変わる場所で働いていたい」
—素敵な出会いがたくさんあったのですね!!就職活動ではやはり当初の希望通り商社を見ていたのですか?
商社がメインで、他にもインターンで関わっていたディベロッパーやメーカーも見ていました。自分の環境が目まぐるしく変わる場所で働いていたい
という思いは変わらなかったので、その軸で会社選びをしていました。
ただ、アメリカ留学中からずっと考えている、「自分の人生においてやりたい事や夢」は未だ見つかりませんでした。
それでも、就職を決めたのはある人の言葉が僕の背中を押してくれたからなんです。
—というのは??
大学一年生の頃からお世話になっている、とある大手ビジネス誌の会長を勤められていた方からかけていただいた言葉で。
就活に悩んでいた時期に、一緒に小豆島旅行に行く機会があったんです。
その時に、正直夢が見つからないという相談をして。
そうしたら
「石原、夢なんか見つかんなくていいんだよ、焦らなくていいんだよ。お前らの時代、70代まで働くんだから。30歳まで自分のやりたい事探すって思ったっていいじゃないか。そこから本気でやりたい事を始めたって40年間働けるんだから。気負いすぎるな。俺は58歳になって初めて夢が見つかったんだよ。」
という言葉をかけてもらったんです。
その時に胸につかえていたモヤモヤが晴れて、会社に入ってから夢を見つけてもいいんだ、と思いました。
—商社で実際に働かれてみてどうですか?
大きなギャップはほとんどなく、思い描いていた通りでした。
ユニークな方たちがたくさんいて、自分の強みだと思っていたものを皆持ち合わせてるので、毎日が刺激的です。
ただ、僕が今所属している課はそれほど忙しくなく
入社後すぐはそのことに満足できず消化不良な気持ちが続いていました。もともと社畜体質で常に何かやることに追われていないとダメな人だったので(笑)
でも、今振り返ってみると、そんな環境下だったから「自分のやりたいこと・夢」がない自分に余計焦りを感じていろいろなことにチャレンジしようと思えたのかなと思います。
—なるほど。その中で石原さんはどのように行動を起こしたのですか?
それから、本を読んだり、映画をがむしゃらに観てみたり、英語の勉強を再開したり、MBA所得のための勉強を始めてみたり…
いろいろチャレンジしたのですが一向に向かう方向性がわからなくて。
◇運命を変えた、「コーチング」という職業
—そうだったんですね。そこからどのような経緯でコーチングに出会ったんですか?
時間を少し巻き戻して、大学3年生の2月。
シンガポールで行われる二週間のインターンに誘われて、参加したんです。
人材育成のプログラムを作っている会社で、インターンプログラムのモニターとして
コーチングを受けさせてもらえることになって。
そこで生まれて初めてコーチングを受けたんです。
小さい頃のことから根掘り葉掘り質問をされて、特に中学校の時のことを振り返った時は辛くて3回くらい泣きました。(笑)
だけど、この時コーチングってすごいなと。奥に秘めた思いや感情を引き出す力が純粋にすごいなって思っていました。これがコーチングとの初めての出会いです。
—なるほど。初めはご自分がコーチングをする側になることは考えていなかったんですね!
そうなんです。転機となったのは、商社で働き始めて1年が経った2017年4月1日。
インターン先の先輩に「君はコーチングに向いているかも」と言われていたことや、
後輩の自己分析を手伝っていた時に「話すのもうまいけど、引き出すのも上手い」と言われたことが心に引っかかっていて。
さらに、同時期に『夢をかなえるゾウ』を読んだんです。そこには、
夢は見つかるかなと待っていても一向に見つからない。興味を持った事に一歩を踏み出して初めて見つかるんだ。
という内容が書かれていて。
まずは、一歩を踏み出してみようと思いその先輩に連絡をしたんです。
次の日には会う約束を取り付けました(笑)
—さすがです(笑)行動が早いですね!
彼にコーチングをしてもらう中で、改めて自分自身もコーチングをやりたいと確信したんです。
そこでコーチングの学校の存在(受講料が受講料は150万円ほど)
も教えてもらいましたが、彼は「ご自身で決断してください、でも私は後悔してませんよ。」って言われました。(笑)
始めはすごく迷いましたね。
でも、講座には40,50歳の様々な業界の管理職層の方々も多くいて、その人達と意見を交換することはどっちみち貴重な経験になるだろうと思い、思い切って受けることにしたんです。
*石原さんのいま
—コーチングを始めてみてどうですか?
受講を決めてから講座が始まるまで時間があったので、OB訪問の延長線で
学生に対してコーチングを始めたんです。
その中で、就活を控えて自己肯定感が低くなっている子達にたくさん会ってきました。
僕から見たらそれぞれに魅力があって、可能性のある子ばかりだし、
彼らの目の前には可能性がたくさん広がっている。
その中で、自分がコーチングをすることで一歩を踏み出す手伝いができる。このことにすごくやりがいを感じたんです。
15人ほどコーチングしたあたりから、自分が本当にやりたかったことはこれだ、と自信を持てるようになりました。
学生からお金をもらっているわけではないのに、自分の時間を割いてでも、毎回ご飯をおごってでも(笑)、力になりたいと思うようになっていたんです。
—私もなんどもおごっていただいてます。ありがとうございますm(_ _)m講座を受けてみてどうですか?
体型的に勉強をするうちに、ますますコーチングの魅力にハマっていますね。
それから、自分自身もこれまで色んな人に「話す」ことで、成長してきたんだな、聞いてくれる人がいつもそばにいたんだな、ということに気がつきました。
だからこそ今度は自分が聞く側に回りたい、そう思いますね。
振り返ってみると、僕が成長する過程には、いつも青臭い自分の話をニコニコしながら聞いてくれた人達が沢山いたということに気がつきました。
—コーチングを始めてから、変わったことはありますか?
今まで、いつも自分が何かを教えてもらう側だったので、「若い」ことを言い訳や前置きにしてきました。ですがコーチングを始めてから不思議と「若いこと」をアピールしなくなって。
いわゆるエリートの方のコーチングをしたことも何度かありますが、どんな経歴にもひるまなくなりましたね。(笑)
なぜなら、コーチングを通してなら、自分が相手に価値を「与えられる」側になった事に気付き、自信を持てるようになったからです。
—コーチングが石原さんの「やりたいこと」になった!と感じた瞬間はありましたか?
年上、年下関係なくコーチングを進めていく中で、「石原さんと会ったことが私にとってのターニングポイントになりました」と多くの方々に言って頂いた事です。
そこで、ずっと頭の中に問いとしてあった、「石原は何がやりたいの?」「君は何が出来るの?」に答えられるようになっていたことに、気が付いたんです。
*石原さんのこれから
—夢を教えてください
コーチングで、一歩を踏み出すきっかけを作ることです。
学生のコーチを続けてきて、やりたいことを明確に持っている人よりも、足踏みをしている
人に対して何かきっかけを掴んでもらうことにすごくやりがいを感じます。
自分は学生の時から、理由はないけど、自分の面白いという感覚だけは信じてきました。そして考え込む前に「やります」と言うことで自分を無理やり当事者にしてきたんです。
挑戦するときに、成功しなきゃだめだとか、そういうことではなくて、
成功がゴールではない、失敗しても結果として道を広げてくれることもある。恐れず一歩踏み出す手伝いがしたいし、そのことを伝えたいと思いますね。
*石原さんの好きなもの
—本・映画
スタバCEO岩田松雄さん『「ついていきたい」と思われるリーダーになる51の言葉』
岩田さんはすごく尊敬している方で、本の中でも、講演の中でも
飾らない自然体な方なんです。
この本はインターンをしていた時に出会いました。
リーダーは弱くてもいい。カリスマじゃなくていい。
強くて皆を引っ張っていくだけがリーダーじゃない。ということを学びました。
自分もそのようなリーダーになりたいし、これならなれるかもと初めて思えたんです。
—好きな言葉
中学生の時から「なんくるないさ」という言葉が大好きです。
これまでも色々活動をして、大きなことにチャレンジする場面がたくさんありましたが、
「なんくるないさ」この魔法の言葉がいつも背中を押してくれました。
アイスランドにて
—人生を100点満点とすると?
100点満点で、51点くらいかな。
ようやく自分のやりたいことが見つかって、人生始まったなって感じがしています(笑)。
でも、今までの自分も今の自分を作り上げている要素なので、今までの頑張りを0にしたら昔の自分に失礼かなと思って50点。それに一歩踏み出したことを記念して、1点加えて51点です。
逆に100点になれば終わりだと思っています(笑)
死ぬ時に100点と思えればいいかな、と思いますね。
—20歳の方へメッセージ
いわゆる“すごい人たち”の話って何処でも聞くと思うのですが、
「あの人とわたしは根本的に違う」って思っちゃう人が多いんですよね。
私でさえも「優希はすごいよね、私とは違うわ」そう声をかけられることがあって、
でも、私は本当に超一般人なんです。
だけど、興味がある。面白そうと思ったことに、とりあえず「何くるないさ」の気持ちで足を踏み入れたら、自然と道が開けてきたんです。私がやったことは、一歩目を踏んだという事だけ。後は周りのみんなが助けてくれたんです。
だから、今、もし少しでも興味ある事柄や、やるか迷っていることがある人がいたら、とりあえず、どんな事でも良いので、「自分の一番出しやすい一歩目」を踏み出して欲しいなと思います。
一般人の自分でも、なんとかなりました。
そして、私も未来へまた次の一歩目踏み出したばかりです。
ぜひ、まずはあなたの思う一歩目を踏み出してみてください。
旅行先でたまたま出会った退役軍人とナイアガラで一日旅行
石原優希さんのコーチングを受けたい→matcherのURL:https://matcher.jp/obogs/dbdfa5c72679
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