花は無心にして蝶を招く。
タイトルにあるのは、江戸時代後期の禅僧で歌人の良寛さんが詠んだ歌の一節です。
花は無心にして蝶を招き
蝶は無心にさて花を尋ねる
花、開くとき 蝶来たり
蝶、来たるとき 花開く
吾(われ)もまた、人を知らず
人もまた 吾を知らず
知らずして、帝則(自然の摂理)に従う。
「無心」とは、少しネガティブな言葉ですが仏教語では【執着や妄想といった煩悩の心を無くす】と言う意味です。
現代では、お金を無心する!なんて意味の方が目にしますがそれとは違います。
「帝則」とは、自然の摂理や道理を意味します。
本来は漢詩なのですが訳しています。
さらにその詩を訳するとしたらこんな感じです。
花は、無心にて蝶を招こうとして咲いているわけでもない。
蝶もまた、無心にて花を尋ねようとしているわけでは無い。
花が咲いてる時に蝶が飛んできて
蝶が飛んでくる時には、花が咲いてる。
私は他人の事など知りはしないが、他人もまた自分の事など知りもしない。
互いに知らないながらに、自然の摂理に従って動いている。
直訳するとこんな感じなのですが、色んな解釈ができ、実際に意図とする事はさらに深く。
真理とは?煩悩とは?縁とは?自然の摂理とは?何故、煩悩を捨てると落が得られるのか?捨てた生き方を見本にするなら誰だ?などが集約されている漢詩になります。
もう「さすが禅僧!!やるじゃん!!」としか言いようがない詩です。
ここでは更に「花」、そして「無心」にスポットを当てます。
禅では花を【無心の象徴】とされています。
また、神仏に蝋燭と花を飾ると思いますが【光は智慧、花は慈悲】を表しています。
無心であり慈悲でもあると思うと、花とはとても面白いものです。
「花の生き方」が、煩悩を捨てた生き方の見本とすると、無心であっても自然と慈悲が存在している事が言えますね。
私たちはいつの間にか世間を見過ぎていて、人の為に生きる
世間に嫌われないように過ごす
善いことをする
傷付けない発言をする
自分に嘘をついて
自分が我慢してでも
そうあらなければいけないと思い込んでしまいます。
しかし、自分の為に今できる事の全てをまっとうしている花を見てごらん。
場所も選んで無い時代のせいにもしていない。
綺麗に咲いてやろうとゆう見栄もなければ
風が強かったからと雪が降ったからと
何かのせいにした言い訳もしない。
芽や蕾の一見、準備の時でも枯れても花は花。
ありのまま受け入れて、今やれる事の全てをまっとうしている。
でも、そのひたむきな姿は幸せとゆう蝶を招いているよ。
自分の為に一生懸命生きていても
他人の幸せの為にちゃんとなってる。
それが、自然の摂理で道理です。
「花は無心にして、蝶を招く」
私たちも自分の為に、ありのままを全うして自然と蝶を招きましょう。
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来季より新しい活動が加わります。
花のように無心になって、蝶(幸せ)を招く!!
その為のフラワーエッセンスと坐禅のコラボセラピー。
『花と坐禅(仮)』です。
本格始動の来年9月までに、内容を詰める為先ずはモニター価格で始動したいと思います。おって詳細を公表していきます。
シャカズヨさんが仏陀の教えの元に、ガンガン煩悩を叩っ斬っていく開花の為のセラピーです。
本日「12月3日は天赦日」
この上なく良い日取りです。
自分の為の良い事を皆さんもスタートしてみてください。
ありがとうございました。
#セオカズヨ