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花は無心にして蝶を招く。

2017.12.02 23:02

タイトルにあるのは、江戸時代後期の禅僧で歌人の良寛さんが詠んだ歌の一節です。



花は無心にして蝶を招き
蝶は無心にさて花を尋ねる
花、開くとき 蝶来たり
蝶、来たるとき 花開く
吾(われ)もまた、人を知らず
人もまた 吾を知らず
知らずして、帝則(自然の摂理)に従う。


「無心」とは、少しネガティブな言葉ですが仏教語では【執着や妄想といった煩悩の心を無くす】と言う意味です。

現代では、お金を無心する!なんて意味の方が目にしますがそれとは違います。

「帝則」とは、自然の摂理や道理を意味します。 


本来は漢詩なのですが訳しています。

さらにその詩を訳するとしたらこんな感じです。


花は、無心にて蝶を招こうとして咲いているわけでもない。
蝶もまた、無心にて花を尋ねようとしているわけでは無い。
花が咲いてる時に蝶が飛んできて
蝶が飛んでくる時には、花が咲いてる。
私は他人の事など知りはしないが、他人もまた自分の事など知りもしない。
互いに知らないながらに、自然の摂理に従って動いている。


直訳するとこんな感じなのですが、色んな解釈ができ、実際に意図とする事はさらに深く。

真理とは?煩悩とは?縁とは?自然の摂理とは?何故、煩悩を捨てると落が得られるのか?捨てた生き方を見本にするなら誰だ?などが集約されている漢詩になります。

もう「さすが禅僧!!やるじゃん!!」としか言いようがない詩です。


ここでは更に「花」、そして「無心」にスポットを当てます。


禅では花を【無心の象徴】とされています。

また、神仏に蝋燭と花を飾ると思いますが【光は智慧、花は慈悲】を表しています。


無心であり慈悲でもあると思うと、花とはとても面白いものです。


「花の生き方」が、煩悩を捨てた生き方の見本とすると、無心であっても自然と慈悲が存在している事が言えますね。


私たちはいつの間にか世間を見過ぎていて、人の為に生きる

世間に嫌われないように過ごす

善いことをする

傷付けない発言をする

自分に嘘をついて

自分が我慢してでも

そうあらなければいけないと思い込んでしまいます。


しかし、自分の為に今できる事の全てをまっとうしている花を見てごらん。

場所も選んで無い時代のせいにもしていない。

綺麗に咲いてやろうとゆう見栄もなければ

風が強かったからと雪が降ったからと

何かのせいにした言い訳もしない。

芽や蕾の一見、準備の時でも枯れても花は花。

ありのまま受け入れて、今やれる事の全てをまっとうしている。

でも、そのひたむきな姿は幸せとゆう蝶を招いているよ。


自分の為に一生懸命生きていても

他人の幸せの為にちゃんとなってる。

それが、自然の摂理で道理です。


「花は無心にして、蝶を招く」


私たちも自分の為に、ありのままを全うして自然と蝶を招きましょう。




...........

来季より新しい活動が加わります。

花のように無心になって、蝶(幸せ)を招く!!

その為のフラワーエッセンスと坐禅のコラボセラピー。


『花と坐禅(仮)』です。


本格始動の来年9月までに、内容を詰める為先ずはモニター価格で始動したいと思います。おって詳細を公表していきます。


シャカズヨさんが仏陀の教えの元に、ガンガン煩悩を叩っ斬っていく開花の為のセラピーです。



本日「12月3日は天赦日」


この上なく良い日取りです。

自分の為の良い事を皆さんもスタートしてみてください。


ありがとうございました。

#セオカズヨ