【麻布①009】麻布今井町
町番号:麻布①009
町名:麻布今井町
読み方:あざぶいまいちょう Azabu-Imaichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1967(昭和42)年6月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区六本木二~四丁目
概要:「今井」の由来は、今井四郎兼平の城があったことによるという説があるが、確証はない。戦国期に見える。豊島郡のうち。『役帳』に、小田原北条氏の家臣、江戸衆太田康資の寄子、伊佐某の給分として9貫800文、松山衆の渡辺丹後の所領として27貫500文が見える。江戸以前の今井村の範囲は非常に広大で、赤坂溜池、虎ノ門、芝西久保、六本木、青山等に至っていた。江戸期では今井村周辺の地。
今井村とは、江戸期から明治初年までの村名で、豊島郡麻布領のうち。はじめ、江戸城外郭を成した虎ノ門、溜池(現行の虎ノ門一丁目北端から赤坂一~三丁目の東北辺り)付近にあったが、1654(承応3)年、虎御門及び堀等が新設された際、用地、武家地として百姓の田畑や住居が召し上げられたため、南西(現行の赤坂八・九丁目付近(麻布今井町)へ移転(新編武蔵)。
1654(承応3)年に今井村の田畑が幕府に召し抱えられることになり、その代わりに与えられた土地は牟礼(井の頭公園の方)であった。代地が余りにも遠いため村民は移転を嫌がり、その後の麻布今井町周辺に移り住んだという。この住民たちが住んだところが、麻布今井町、麻布今井寺町、麻布今井三谷町、麻布今井谷町、今井台町(後の麻布市兵衛町)、麻布谷町の各町となり、当時「今井本村」と名乗っていた。『元禄郷帳』の村高は67石余、『天保郷帳』、『旧高旧領』では65石余。『新編武蔵』には麻布今井町を「今井本村」ともいい、今井台町と麻布谷町を除く村の惣名を「麻布今井町」とも称したとある。これは1672(寛文12)年に今井台町、麻布谷町が今井村から分村したことによる。また同書に「今井町在方分」として、松平出羽守抱屋敷、相馬長門守抱屋敷、真田伊豆守抱屋敷、永昌寺抱地等を記す。1713(正徳3)年、町奉行・代官の両支配に属す(新編武蔵)。
麻布今井法音寺門前(1631(寛永8)年起立)、麻布湖雲寺門前(町)(1695(元禄8)年、四谷仲殿町より転来(四谷仲殿町は2箇所あり、そのどちらかは不明))の2つの門前町屋があった。町の南には寛永期(1624~1645年)に寺院が多く起立し、麻布今井寺町と呼ばれた。
明治初年、「今井村」の村名は消滅。今井法音寺門前と麻布湖雲寺門前(町)は麻布谷町に合併された。しかし、翌1870(明治3)年12月、麻布今井三谷町、麻布今井寺町、麻布今井法音寺門前が合併し、麻布東今井町として独立する。
1872(明治5)年、武家地寺社地と共に麻布東今井町を合併し、麻布今井町が起立。同年の戸数52・人口242(府志料)。同時に赤坂の麻布今井町(赤坂今井町)は、付近の武家地とともに赤坂檜町、赤坂新坂町に編入となり消滅。
なお、当町は前述のような変遷があったため、町域が複雑な形をしている。因みに合併された武家地は真田信濃守、相馬大膳亮の各中屋敷等であった。明治以降、旧武家地は大邸宅となり、三井、藤田両邸となった。町の南側は依然として寺院が多く、現・六本木通り沿いは商人職人が多く住んだ。町の東端部には赤坂区との境界に忠臣蔵で有名な南部坂がある。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
1967(昭和42)年7月1日、住居表示の実施により、六本木二~四丁目に編入となり消滅。
撮影場所:麻布今井町