【麻布①011】麻布永坂町
町番号:麻布①011
町名:麻布永坂町
読み方:あざぶながさかちょう Azabu-Nagasakachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:存続
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区麻布永坂町、麻布十番一丁目1~4番、東麻布三丁目、六本木五丁目12・13番の一部
概要:もとは麻布領麻布村御領所のうち。1709(宝永6)年12月に家作が許され、1713(正徳3)年に町奉行の支配となる。他に天徳寺領のうちにも、1731(享保16)年7月に町家作が許され(町方書上)、1713(正徳3)年から麻布永坂町、飯倉永坂町が起立。町名は町の北の方に長い坂があったことによる。町屋は坂の東側と坂下の一帯で、町屋の北端に真宗西本願寺末雲岳山光照寺・日蓮宗大長寺、中途に三田稲荷、南端に竹長稲荷があった。1827(文政10)年の総家数217軒、うち家持15・家主16・地借8・店借178。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、飯倉永坂町、麻布永坂光照寺門前を合併。1872(明治5)年、さらに武家地・寺社地を合併。同年の戸数182・人口769。物産は傘・傘骨(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。明治30年代の町内には麻布警察署・香蘭小学校の他、寛政年間(1789~1801年)開業の更科そば屋布屋太兵衛があった。1908(明治41)年の世帯数258・人口1,303。もともと町屋だったところは商家に、武家地等だったところは屋敷になった。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
1962(昭和37)年10月1日、麻布地区の地番整理により、永坂の坂下は現行の麻布十番一丁目1~4番、東麻布三丁目に編入となる。その後、住居表示の実施により、1967(昭和42)年7月1日には永坂の西側が六本木五丁目12・13番の一部となった。永坂の東部分は住民から抗議運動が起こり、住居表示の実施が見送られたため、現在も麻布永坂町として残る。但し、住居表示の実施前は麻布東鳥居坂町との境界にある於多福坂が町の西端であったが、一の橋から飯倉片町交差点を抜ける「永坂」の大通りの開通に伴い、大通りから於多福坂までに、町域西部は麻布永坂町から六本木五丁目に編入されて町域は狭まった。
なお永坂は、東京オリンピックを迎える際に建設した首都高速環状線の高架下の都道415号線(放射1号)とされ、往時を偲ぶことは不可能な状態となっている。
撮影場所:麻布永坂町