【麻布①012】麻布新網町
町番号:麻布①012
町名:麻布新網町 一・二丁目
読み方:あざぶしんあみちょう Azabu-Shinamichō
区分:町丁
起立:1707(宝永4)年
廃止:1962(昭和37)年9月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区東麻布三丁目、麻布十番一丁目
概要:江戸時代初期には古川沿いの原野で、1656(明暦2)年の図にはまだ人家はなかったようだ。延宝年間(1673~1681年)に一丁目部分が徳川三代将軍・家光の三男・徳川綱重の屋敷となり、二丁目部分は「堀留」と言われる川岸の空き地であった。なお、「麻布十番」のいわれは、1667(寛文7)年の新堀川普請の際、芝の将監橋から一の橋までを10の工区に分け、一~十番の幟を建てたことから「麻布十番」と俗称したことによる(備考)が、諸説あるそうだ。なお、古川は1675(延宝3)年に幕府直営の改修事業を施され、「新堀川」と呼ばれるようになった。
1707(宝永4)年、芝新網町の一部が麻布本村のうち、麻布堀留物揚場際に代地を給され起立。空き地はおいおい御家人衆の拝領町屋敷となったが、その後1723(享保8)年には一丁目南側と二丁目の東半分が火除地にするため収公され、二丁目の東西に長く馬場ができ、「十番馬場」と呼ばれた。馬場では仙台駒の市が開かれ有名になり、馬乗袴は十番仕立てといって珍重されたという。この馬場ができたとき、新網町の他の部分は麻布新網町一丁目と同町拝領町屋となり、「十番中甼(仲町)」の俗称があった。飯倉坂下町(麻布坂下町のことか)裏通の石川近江守上屋敷跡に代地を給されたため、1707(宝永4)年の拝領代地を麻布新網町一丁目、1723(享保8)年の拝領代地を麻布新網町二丁目とした(二丁目は芝新網町の住民が移転)。
しかし、二丁目は「地所悪鋪難儀」であるため、一部住民は2年後の1725(宝永10)年には芝新網町へ帰ってしまい、その他は1732(享保17)年に河岸通に代地を給され、そこへ移転した。その際、二丁目が2ヶ所となったため、1738(元文3)年、そちらは新網町二丁目代地の「網」と「代」の文字を採って「麻布網代町」と改称した(とも)。1723(享保8)年の拝領代地であった二丁目は東部植木屋拝領地であったところが飯倉新町拝領町屋に、その東の古川岸には新堀端芝御霊屋御掃除屋敷拝領町屋になる等の小さな変化があった。明治に入ると十番馬場は廃止された。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、麻布十番馬場町・新堀端芝霊屋敷掃除屋敷代地を合併し、丁目を廃止。1871(明治4)年の六大区制の際に一部は飯倉新町として独立し、1872(明治5)年、薪河岸、組屋敷、飯倉新町を合併、一・二丁目と改編(1873(明治6)の説もあり)。1872(明治5)年の戸数243・人口972(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。同年の戸数243・人口972(府志料)。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。江戸時代から同町域は商店が多く、活況を呈していたようだが、明治以降はさらに繁昌し、夜も露店が出るなど、麻布区一の繁華街となった。この状況は戦前まで続いたが、疎開と戦災を受け、さらに戦後の道路拡張に憂き目に遭い、旧況を失った。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
1962(昭和37)年10月1日、麻布地区の地番整理により、一丁目は東麻布三丁目、麻布十番一丁目の各一部に、二丁目も麻布十番一丁目の一部に編入となり消滅。
撮影場所:麻布新網町一丁目
撮影地:港区東麻布三丁目7番13号(ナチュラルローソン東麻布三丁目店)