【麻布①015】麻布六本木町
町番号:麻布①015
町名:麻布六本木町
読み方:あざぶろっぽんぎちょう Azabu-Roppongichō
区分:町丁
起立:1869(明治2)年
廃止:存続 「六本木」として
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区六本木三、五~七丁目
概要:町名の由来は複数あり、6本の松が生えていたから、上杉・朽木・高木・青木・片桐・一柳という「木」に因んだ名字を持つ6つの家の屋敷があったからともいわれる。これが元になった有名な地口に「麻布のお方で木(気)が知れぬ」がある。
町域に饂飩坂と芋洗坂という2つの坂があるが、時代によっては両坂の名前が逆に呼ばれていた時期もある。本来芋洗坂は六本木交差点が始点ではなく、麻布龍土材木町から饂飩坂との交差点に向かって通る一本裏の道から薮下に抜ける坂だったようだ。
1869(明治2)年、麻布龍土六本木町、麻布光専寺門前代地、麻布深広寺門前代地、麻布北日ケ窪町代地、麻布教善寺門前、飯倉六本木町、麻布正信寺門前、麻布龍土坂口町、麻布光専寺門前、麻布深広寺門前等を合併し、起立。1872(明治5)年には武家地、寺地も併せて町域が完成。同年の戸数133・人口528(府志料)。町名は麻布龍土六本木町、飯倉六本木町の名称を継承。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。明治期に入ってから、現在の六本木通りとなる通りが開通し、現在の外苑東通りと交差して要衝と化し、繁栄が始まった。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。明治30年代の町内には蒲焼商大和田、井口旅館等があり、繁華街を形成していた。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
住居表示の実施により、六本木は町域を拡大する。1966(昭和41)年7月1日に麻布桜田町の一部と麻布宮村町の一部が六丁目の一部に、麻布谷町が一・二丁目の各一部に、赤坂榎坂町(旧称「溜池榎坂町」)の一部が一丁目の一部に、1966(昭和41)年10月1日に麻布新龍土町の一部が七丁目の一部に編入となり、次いで1967(昭和42)年1月1日には麻布材木町の一部が 西麻布一丁目の一部に編入となったがその後に六本木六・七丁目の各一部に、麻布桜田町の一部が西麻布三丁目の一部に編入となったがその後に六本木六丁目の一部に、麻布霞町の一部が西麻布一~三丁目の各一部となったが、その後六・七丁目の各一部に、さらに1967(昭和42)年7月1日には麻布飯倉片町の一部が五丁目の一部に(その後一部が麻布台に変更)、麻布市兵衛町一丁目の一部が一丁目の一部に(その後、一部が虎ノ門に変更)、麻布市兵衛町二丁目が一、三・四丁目の各一部に、麻布仲ノ町が三丁目の一部に、麻布簞笥町が一~三丁目の各一部に、麻布谷町の一部が一・二丁目の各一部に(その後、一部が赤坂に変更)、麻布今井町が二~四丁目の各一部に、麻布永坂町の一部が五丁目の一部に、麻布南日ヶ窪町が五・六丁目の各一部に(1978(昭和53)年9月1日に一部実施区域あり)、麻布北日ヶ窪町が五・六丁目の各一部に、麻布鳥居坂町が五丁目の一部に、麻布東鳥居坂町が五丁目の一部に、麻布材木町の一部が六・七丁目の各一部に(その後、一部が西麻布に変更)、麻布龍土町が七丁目の一部に、麻布新龍土町の一部が七丁目の一部に(その後、一部が南青山に変更)、麻布桜田町の一部が六丁目の一部に(その後、一部が元麻布・西麻布に変更)、麻布六本木町が三、五~七丁目の各一部に、麻布霞町の一部が六・七丁目の各一部に(その後、一部が西麻布に変更)、麻布三河台町が三・四丁目の各一部に、麻布宮村町の一部が六丁目の一部に(その後、一部が元麻布に変更)、赤坂榎坂町(旧称「溜池榎坂町」)の一部が一丁目の一部に(その後、一部が赤坂に変更)、赤坂霊南坂町(旧称「溜池霊南坂町」)の一部が一丁目の一部に(その後、一部が赤坂に変更)、そして1976(昭和51)年10月1日に麻布飯倉片町の一部が 麻布台三丁目に編入となったがその後に一部が六本木に変更となり、麻布市兵衛町一丁目の一部が虎ノ門四丁目の一部となったがその後に一部が六本木に変更となり、最後に1978(昭和53)年9月1日には麻布南日ヶ窪町の一部が六丁目の一部に編入となった(一部が1967(昭和42)年7月1日実施区域あり)。
今、六本木というとかなり広範なイメージだが、上述のとおり、麻布六本木町の町域は現行の六本木三、五~七丁目のそれぞれ一部のみである。
撮影場所:麻布六本木町