【麻布①024】麻布一本松町
町番号:麻布①024
町名:麻布一本松町
読み方:あざぶいっぽんまつちょう Azabu-Ippommatsuchō
区分:町丁
起立:1668(寛文8)年
廃止:1966(昭和41)年6月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区元麻布一、三丁目、麻布十番一~三丁目
概要:もとは阿佐布村のうちだが、1668(寛文8)年頃に分かれて一村を成したらしい。しかし、その頃の地図によると、麻布村地、寺地、武家地等が入り交じっている。その後、町屋が徐々に増えていったという。
町名は源経基或いは京の貴人に因む伝説等を持つ松が町内ほぼ中央にあることによる。源経基に関する伝説では、麻布笄町の伝説の続きとなるものである。笄橋を渡った経基はその後、麻布の民家に投宿した。その際に着ていた装束を松に掛けたため、「冠松」と呼ばれるようになり、やがて一本松として語り継がれるようになったというもの。他の説は、昔、松乃宮様という人が京都から下ってきて、この松の場所で亡くなった。衣冠と遺体を埋め、本人を偲んで松の木を植えたというもので、この説によると松乃宮様の共の小野某が、そばに如意輪観音の木造を安置して草堂を結んでいたが、やがて観音像は近所の長伝寺に移されたという。
その松が生える一本松坂は、現・元麻布一丁目と二・三丁目の境を北東へ下る坂で、浄土宗長伝寺前にある。別称「大黒坂」、「相生坂」。坂下に栄久山大法寺があり、その境内に大黒天堂があるため、「大黒坂」とも呼ばれ、坂上から北方へ分岐する闇坂(くらやみざか)と双称して「相生坂」ともいう。坂上の一本松は戦災後に再植した若木で、嘗てこの松に甘酒を入れた竹筒を上納すれば咳が治るという俗信があり、松の傍の茶屋が甘酒を竹筒に入れて売っていた。
1713(正徳3)年、町奉行支配となる。1828(文政11)年の総家数85軒、うち家持16(4軒他住居)・家主10・地借2・店借61(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、麻布台雲寺門前、1872(明治5)年、もと伊勢菰野藩土方氏下屋敷・肥前佐賀藩鍋島氏抱屋敷・大法寺・賢宗寺・長伝寺・台雲寺等の寺地・武家地を合併。同年の戸数73・人口286、物産、味噌・麹・筆(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
1962(昭和37)年10月1日、麻布地区の地番整理により、一部が現行の麻布十番一~三丁目に編入。残余も1966(昭和41)年7月1日、住居表示の実施により、元麻布一丁目2番、二丁目11番の大部分に編入となり消滅。
撮影場所:麻布一本松町