【麻布①026】麻布桜田町
町番号:麻布①026
町名:麻布桜田町
読み方:あざぶさくらだちょう Azabu-Sakuradachō
区分:町丁
起立:1624(寛永元)年
廃止:1967(昭和42)年6月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区元麻布三丁目、西麻布三丁目、六本木六丁目
概要:1624(寛永元)年、麻布村の原野だった場所に、もともと現在の霞ヶ関周辺にあった桜田町の住民が、霞ヶ関が武家地になるのに伴ってこの地に代地を受けて移住してきたのがはじまり。霞山稲荷(桜田神社)は町と一緒に霞ヶ関から移転してきたもので、移転前の土地は霞山稲荷があったので「霞ヶ関」と呼ばれていた。移転後に町内に妙善寺、妙祝寺、観明院、正光院等複数の寺院が起立される地区となった。この辺りは当時「阿左布新宿」と呼ばれていたが、これは広尾に抜ける街道を宿場町として活用しようとする幕府の意図があったようだ。また、「麻布百姓町」の俗称で呼ばれ、『麻布区史』によると、この俗称は近年まで通じていたという。
1602(慶長7)年頃に上地となり、坂下の溜池の端、坂上を経て駕籠訴して、1624(寛永元)年に麻布の原4町2反余へ代地を得た。1631(寛永8)年、町域の一部、妙善寺、正光院、観明院が門前町屋を許され、1746(延享3)年に町奉行支配となった。麻布村高のうちであったが不正があり、1671(寛文11)年に町名主が年貢諸役を務めるようになった。1713(正徳3)年に町奉行支配となる。1828(文政11)年の家数495軒、うち地主39・家主34・地借2・店借420(町方書上)。
この町の名主であった元甲州浪人十兵衛が有名で、高い火の見櫓とともに「桜田に過ぎたるものが二ツあり、火の見半鐘に箕輪の重兵衛」と謳われ、また鷹狩りのとき、将軍手ずから3文を賜った桜屋長右衛門等の旧家があった。「玄碩坂(げんせきざか)」、「紺屋坂(ごみ坂)」、「富士見坂」、「大横丁」、「上町」、「中町」、「下町」、「札の辻」等の俗称地名があった。現行の六本木六丁目・元麻布三丁目の西部・西麻布三丁目の東部に寺院を挟み、18ヶ所に分かれていた他、渋谷御掃除町の東方・麻布笄橋の東方・内藤因幡守上屋敷続きにそれぞれ飛地があった。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、麻布妙善寺、麻布観明院、麻布正光院、麻布妙祝寺の各門前町を合併。1872(明治5)年、内藤因幡守上屋敷と寺地、霞山稲荷社地を合併。同年、飛地を麻布笄町に編入。同年の戸数356・人口1241、物産は元結等(府志料)。維新後、表通りは日用品商店街、背後は中流以上の住宅街となった。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。1908(明治41)年の世帯408・人口1723。1935(昭和10)年の世帯360・人口1860。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。戦後、特に1959(昭和34)年の日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の開局とともに六本木の一面として独特な都心的景観へと変貌した。
住居表示の実施により、1966(昭和41)年7月1日に東南部が元麻布三丁目に(その後、一部が六本木、西麻布に変更)、1967(昭和42)年1月1日には西部が西麻布三丁目に(その後、一部が六本木、元麻布に変更)、そして1967(昭和42)年7月1日には東北部が六本木六丁目(その後、一部が元麻布、西麻布に変更)にそれぞれ編入となり消滅。
撮影場所:麻布桜田町