心と身体の洗濯
「心と身体の洗濯」
汚れた服や使った食器は洗剤を使ってゴシゴシ洗って、汚れを落として使います。
綻びたお洋服や欠けた茶碗は、新しく新調し直す事がありますが「人の身体」はそうはいきません。
怪我をしようが病気をしようが、心に傷を負う事があっても、心も身体も替えはありません。
新調する事が出来ないのなら、その心と体を労わりながら大事に使って行かなければなりません。
私は時々「自分のために何かしてますか?」と質問すると、その殆どが買い物に行ったり習い事をしたり、その側から何かを足して飾る事を言われます。
しかし『 自分のためにする事 』は、そうではありません。
疲れた身体をしっかりと癒す事、傷ついた心をしっかりと受け止めること、時間が足りないと焦っていれば「この先足りる事はない」と気付き、自分の能力に正しく向き合って使っている事を減らす事。
私たちはどうしても「足そう、着飾ろう、得よう」と特に物質的欲求が強くそれで埋めようとしますが、自分のためにできる大事な1つはコレです。
『この先も共に生きる、替えのない心身を大事に扱う事』
洗濯してない洋服には垢がついて汗が滲んで、不快に感じさせる汚れや臭いが出ます。
洗ってない食器を使いまわし、ご飯を食べる事は現代人では考えられないと思います。
それらが清潔で良い筈が無い、とわかるのに自分自身の身体と心はどうでしょう?
不満とゆう垢や、愚痴という臭いを出してませんか?汚れた食器の使ってない部分を見つけて「ここは大丈夫、綺麗だから」と洗う事を辞めて、綺麗な場所を探す使い方と同じように「腰は痛いけど歩け無い事はない」とか「肩凝ってるけど、動けない訳じゃない」と身体の不調を隠して使える部分を見て、生きてませんか?
心も身体、また魂も全部繋がっています。
一部の不調は、全部の不調に繋がっています。
肩こりの原因が心の在り方にあったり、頭痛の原因が骨盤のズレにあったりと、全て繋がっています。
「痛い」と感じる所は実は根本原因では無かったり、そして「痛いと感じてる時は遅い」んです。
さて、私たちは死ぬまで替えのきかないこの身体と心を使っていかなければなりません。
毎日の生活は慣れているからこそ、あまり疲れたと感じないかもですが、小さい積み重ねこそが危険でもあり、大切な事でもありますね。
子供の頃からの癖がなかなか抜けないように、日々の習慣づいた癖は取るのが難しいのです。
そんな日々の習慣づいた癖を、頑固な汚れに
なってしまう前に「 心と身体の洗濯 」のできる《 お風呂 》でしっかり落として行きましょう。
そして、お風呂のお湯や水で不満、愚痴、トラウマ、に向き合いながらも心の垢も一緒にしっかり流しましょう。
心も身体も、「キツイから病院!」「浮腫んだからボディケア!」ではなく、毎日ピカピカに磨く癖をつけましょう。
#セオカズヨ