銀行の音楽

　最近使い始めた保湿クリーム。成分がシンプルならば容器もシンプルで面白い。現状肌荒れも悪化していないので様子を見ながら使い続けようと思う。

　数日前に訪れた銀行で、バイオリンを主旋律とした音楽が流れていた。絶対に聴き覚えのある曲なのに曲名が思い出せなかった。両替機の列に並びながらスマートフォンを取り出して『曲名　調べる』といったワードで検索した。確か端末をスピーカーに近づけるか鼻歌を向けるかすれば調べられるはずだった。思惑通り、その機能は搭載されていた。BGMは早くも次の曲へと切り替わってしまった。銀行内で「この曲何？」とスマートフォンに話しかけた上に歌を口ずさむのは流石に躊躇われた。悶々とするうちに目の前の人が横移動したのでスマートフォンをポケットに突っ込んで両替機の前に立った。音楽は内に留めておいて銀行を出てから検索すればいいと思った。

　音楽を反芻しつつ両替を終えてATMの列に並んだ。結構人がいた。ラララララ、と頭の中にバイオリンを響かせていると五台あるATMのうち右端に立っていた人がこちらを向いて「今いいんじゃない？」と通帳片手に言った。その人はおそらく操作に不明点があったか何かでスタッフを呼んだばかりで、だからスタッフが来る前のちょっとした時間に私に譲ろうとしてくれたようだった。「あ、私こっちなので」左を指差した。ATMのうち硬貨の取引が可能なのは左側の三台だった。「あ、そう」右から二番目が空いた。私は後ろを振り返り、並んでいた人に「硬貨がなければどうぞ」と言った。「銀貨があるから」「そうですか」視界の隅で左端のATMが空いたので会釈してからそこに身体を収めた。入金を済ませて立ち去ると先ほどよりも列が長く延びていた。

　銀行を出て赤信号の横断歩道で足を止めた。ここでなら鼻歌にチャレンジできるかもしれないと思い、スマートフォンを取り出した。人が右から来た。スマートフォンを握りしめたままぼんやりしていると青信号に変わった。横断歩道を渡りきって駐車場に停めていた車に乗り込んで、今度こそ、と思ったけれど空腹を感じたのでエンジンを入れた。YUKIさんの『歓びの種』を再生させて駐車場を出ると三分後には自宅に着いていた。『歓びの種』は途中で終わった。

　手洗いうがいを済ませて幕の内弁当をテーブルに持っていってマグカップに焙じ茶の粉を振り入れてウォーターサーバーのお湯を注いで冷蔵庫からにんじんのぬか漬けとキャベツの千切りを出してそれらを皿ではなく適当なタッパーに放り入れてキャベツには柚子ドレッシングをかけてマグカップと共にテーブルに出してテレビでYouTubeにアクセスした。銀行で流れていた音楽のことをすっかり忘れた私はにんじんとキャベツを食べた後に幕の内お弁当の蓋を開けた。食後にお昼寝をしてスマートフォンのアラームで目を覚まして再び車に乗り込んで職場に行き仕事をして夜になるとまた自宅に戻ってきた。そこで音楽のことを思い出した。ただし思い出したのは「聴き覚えのある音楽の曲名を調べようとしていた」ことのみであり、肝心のメロディは消え去ってしまっていた。うんうん唸ろうとも復活しなかった。辛うじて、音楽の雰囲気だけはこぼれ落ちずに居残っていた。クロノトリガーのあの曲に似ていた、ひょっとするとあの曲だったかもしれない、でもその曲名も思い出せない……Googleに「この曲何？」と訪ねてハミングすると『風の情憬』のYouTube動画が現れた。昔、作業用BGMの動画か何かで知った曲だった。『風の情憬』が再生された。一散に懐かしさがこみ上げてきた。しかし銀行に流れていた曲では、多分なかった。その判断にすら自信が持てなかったので同曲の他の演奏を聴くことにした。あらゆるアレンジを聴いたが聴けば聴くほど違う気がした。と同時に、聴けば聴くほど銀行で流れていた音楽は薄れ、遂に気配もろとも終わってしまった。

　次第に、銀行の音楽も作業用BGMの動画で耳にしたのかもしれない、と思い始めた。途端にゲーム音楽の可能性が膨れ上がり、『ゲーム音楽　バイオリン』『クロノトリガー　バイオリン』といったワードで捜索を始めた。表示された動画を再生する度に混乱は深まり、最後に『風の情憬』に戻ると、どこかしっくりきた。銀行の音楽はやはりこれだったのかもしれない。瞼を下ろして銀行の記憶を手繰り寄せると『風の情憬』が美しく揺蕩い始めた。けれど頭の片隅の冷静な自分は、それは記憶が上塗りされただけだと分かっていた。そもそも銀行に『風の情憬』が流れるはずがないのだ。あの曲が流れようものなら誰もが足を止めて聴き入ってしまいお金の取引どころではなくなってしまうだろう、という主観でしかない暴論から、そんな確信が打ち出された。

　今夜はスナネコの赤ちゃんの動画を見てから床につく。