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渋谷昌孝(Masataka shibuya)

裸の家

2022.04.02 13:23

「現存在はだんじて、身体という物体が充たしている空間部分のうちで目のまえに存在しているのではない。実存することで現存在は、そのつどなんらかの活動空間を場として許容してしまっている。現存在はそのつどじぶんに固有なありかたを規定しており、そのけっか現存在は場として許容された空間のほうから、みずからが占めていた『場所』へと立ちかえるのである」

ハイデガー「存在と時間」第70節(岩波文庫)

順序に注意しよう。現存在は身体という空間を満たしているものとして存在しているのではない。実存している現存在は、その都度自分のありかたを規定しており、場として許容された空間の方から自らが占めていた場所へと戻ってくるいう様式で存在している。はじめから空間があるのではない。実存的なありかたをしている現存在が、その都度規定するものから空間というものを新規に配置する。そして前提としてあったであろう空間ではなく、実存的に現れた空間に自分自身を回帰させる。なぜか私たちは空間をすでに前提としてしまっている。だが、ハイデガーは次のように言う。「現存在が空間中の或る位置に目のまえに存在しているなどと語りうるためには、私たちは現存在という存在者をあらかじめ存在論的に不適切に統握していなければならない」。空間という概念は現存在よりも確かなものと言えるのだろうか。空間こそ現存在という実存的なありかたによって規定されるべきものではないか。空間の中に現存在があるというならば、自分自身を取り巻いているものを、もう知っているものとして存在しうることになってしまうが、それを知っているのは現存在であるはずだ。これから知られるべきものに知るもの自身がすでに入り込んでしまっている。順序(なにを基準にした順序なのか?)として現存在のほうが先(どのように先なのか?存在論的に?時間的にではない!)なのに、空間というものを現存在よりも先(優先?)にあった確実なものとして論を進めないければならないが、これは問題である(不確実な前提を根拠としてしまっている)。あらかじめ前提とされてしまっているものに対してどのような態度で接するべきなのかが問われている。空間を家と置き換えてみよう。家はまだ設計図の段階にあって住む人の頭の中にあるとする。空間の中に現存在があるという語りは、裸の家(まだ建築されていない架空の家)の中にもう住んでしまっているというに等しい。