特集記事 私のキャリアチェンジ
多様な診療経験をもとに患者の気持ちに寄り添い求められる医療を提供したい
上越地域医療センター病院 渡辺俊雄医師
予想外の依頼に
YESと答え新たな診療科で活躍する
技能とチャンスを手に入れた
新潟から金沢の大学へ進学するのは少数派だった
渡辺俊雄氏は消化器外科、呼吸器外科、緩和ケア科、そしてリハビリテーション科と、
35年間の医師生活で幾度もキャリアチェンジを経験してきた。診療科も病院も同時に変わる大胆な転身だが、いずれも綿密な計画によるものではなかったと渡辺氏はいう。
「相手方の病院に声をかけてもらうなど、目の前に来たチャンスをためらわずにつかんだ感じでした。私の場合、節目節目でそういう機会が巡ってくるようです」渡辺氏が医師を目指したきっかけは、小学生の頃に母親を病気で亡くしたときにさかのぼる。悲しむ渡辺氏を励まそうと親戚が医師になることを勧め、自らもその道を意識するようになったという。
「知人や親戚に医療関係者はいませんでしたが、私なりに各医学部の特色などを調べ、金沢大学医学部の受験を決めました」
新潟から金沢の大学へ進学するのは少数派だった
渡辺俊雄氏は消化器外科、呼吸器外科、緩和ケア科、そしてリハビリテーション科と、35年間の医師生活で幾度もキャリアチェンジを経験してきた。診療科も病院も同時に変わる大胆な転身だが、いずれも綿密な計画によるものではなかったと渡辺氏はいう。
「相手方の病院に声をかけてもらうなど、目の前に来たチャンスをためらわずにつかんだ感じでした。私の場合、節目節目でそういう機会が巡ってくるようです」渡辺氏が医師を目指したきっかけは、小学生の頃に母親を病気で亡くしたときにさかのぼる。悲しむ渡辺氏を励まそうと親戚が医師になることを勧め、自らもその道を意識するようになったという。
「知人や親戚に医療関係者はいませんでしたが、私なりに各医学部の特色などを調べ、金沢大学医学部の受験を決めました」
渡辺氏は新潟県の中越地方生まれで、長岡市内の県立高校に進学。そこから医学部に進学するなら新潟大学、あるいは東北や関東の大学を選ぶ同級生が多い中、金沢大学は少数派だったという。「当時から、人と違う道でも気にしない性格なのかもしれません」
消化器外科から呼吸器外科へ9年目に訪れた最初の転機
卒業後は医師=手術のイメージから外科、中でも母親の病気と関係が深かった消化器外科を希望。その分野を専門とする金沢大学の第二外科に入局し、大学病院でも
消化器外科を担当した。それから9年。胃がんや大腸がん、乳がん、甲状腺がんなどの診
療経験を積み、それぞれの手術に対する自信も深めていた渡辺氏に最初の転機が訪れた。
「関連病院から『肺がんの手術ができる呼吸器外科を立ち上げたい。ついては医師を送ってほしい』と依頼が来て、医局長などが検討した末、私に呼吸器外科への転身の打診があったのです」最初は今から転科? と疑問を感じた渡辺氏。そのうちに「消化器外科をひと通り経験し、今なら新しい分野に取り組んでもいい」と考えるようになったという。
「新しい興味にすぐ反応するタイプなのでしょう。さすがに私の面倒を見てくれた指導教員は納得がいかない様子でしたが……」その後は呼吸器外科を専門的に学ぶため国立がんセンター中央病院で研修を受け、富山県の黒部市民病院呼吸器外科に赴任した。
治せない患者に何ができるかその答えが緩和ケアだった
赴任先で診療を始めて数年後。消化器外科、呼吸器外科を通じて数多くのがん患者を診てきた渡辺氏は、次第に緩和ケアに目を向けるようになったと語る。
「治療して治せた方以外に、治せなかった方、手術できる状況になかった方なども多く、治せない患者さんに対して何ができるかを考えるうちに、緩和ケアに関心を持つようになりました」渡辺氏は緩和ケアの研究会や学会などに参加。将来はこうした分野に力を入れることも考え始めた矢先、緩和ケア科の医師になってほしいと声がかかったという。
相手は富山県立中央病院で、県のがん連携拠点病院として緩和ケア病棟を備えていたが専任の医師がおらず、緩和ケアに関心を持つ渡辺氏に期待を寄せていた。「本当はあと5年ほど呼吸器外科を続けたかったのですが、そのタイミングでまた声がかかるとは限りませんから、このときも迷わず新たな分野を選びました」その病院は全国でも早くに緩和ケア病棟を設けたためか、地域には終末期のイメージが根強く残り、「がんの診断後すぐに緩和ケアを」という考えの普及に時間を要したと渡辺氏。院内の緩和ケアチームの立ち上げや診療と並行して、県のがん連携拠点病院の役割でもある地域への啓発活動や医療関係者向けの勉強会を続け、少しずつ考えを浸透させていったという。「ただその過程には大変な労力が必要で、私自身は診療以外の面で疲弊してしまいました」
診療に全力を注げず、今後について思い悩んでいたとき、渡辺氏は上越地域医療センター病院(新潟県)の緩和ケア科の募集を偶然見つけて応募。次のステージへと進むことになった。
緩和ケア科に加えリハビリ科も
病院長からの期待に応え、
活躍の幅が広がった
回復期や地域医療が主の病院で緩和ケアに取り組む
上越地域医療センター病院の緩和ケア科は、病院長である石橋敏光氏の「地域になかった緩和ケア病床を立ち上げよう」という考えのもとで生まれた診療科だ。
渡辺氏が同院にひかれたのは石橋氏の熱い思いに共感したことに加え、急性期中心の病院とは異なる穏やかな環境での緩和ケアに興味を持ったからだという。「以前の病院は、緩和ケアで入院しても病状が落ち着いたら在宅療養を勧めるのが通例でした。しかし、当院は入院継続も在宅療養も本人の希望が第一。患者さんに寄り添う姿勢に感銘を受けました」
予想外だったのは、緩和ケア科以外にリハビリテーション科の担当も石橋氏に頼まれたことだ。「この年齢で新たな分野を診られるのか不安でしたが、これまでの転機と同様、チャレンジしてみようと思って引き受けたのです」
こうして渡辺氏は同院入職後、緩和ケア科とリハビリ科の両方を診ることになった。緩和ケア科は石橋氏と協力しながら、リハビリ科でも複数の医師や専門職のスタッフとチームで診療するため、以前のような孤軍奮闘の感はなく、心地よく対応できているという。
患者の話を丁寧に聞く緩和ケアの姿勢が役立つ
では渡辺氏は初めてのリハビリ科をどう感じているのだろう。「回復期リハ病棟では急性期後の患者さんを引き受け、次第に良くなる過程を診ていけるのが新鮮です。脳卒中で半身まひの状態から完全な回復は難しいものの、体が動いて表情も明るくなる様子が見られるのはうれしいですね」また以前は大腿骨頚部骨折と呼んでいた症状が大腿骨近位部骨折となり、それに頸部骨折と転子部骨折が含まれるなど、大学時代に学んだリハビリの知識もかなりの
アップデートが必要となった。渡辺氏はそうした勉強も楽しみの一つと楽観的に捉えている。加えて緩和ケア科での経験がリハビリの診療に生かせる面があったのは意外な収穫だったという。「私は気づきませんでしたが、リハビリのスタッフに『渡辺先生は緩和ケアもやっているから、患者さんの話をよく聞いてくれる』と言われました。確かに緩和ケアでは患者さんが何を気がかりに思い、どんなつらさがあるのかを詳しく聞くことから始まります。そうした部分がリハビリ科での対応に役立っているのでしょう」
声をかけられたらチャンス転職後に得るものは大きい
同院のリハビリ科は回復期リハ病床のほか、在宅医療支援センターによる訪問診療や訪問リハとも連携している。このため渡辺氏も医師になって初めて患者宅への訪問診療を行ったという。「以前の病院では何人もの患者さんに在宅療養を勧めていながら、現場を経験したのは今回が初。目的は訪問リハを始めるための確認でしたが、患者さん宅での診療は病院とはまったく違う感覚で、医師になりたてのような緊張感と軽
い興奮状態に陥りました」
それでも患者の話を丁寧に聞く姿勢は同じだったのだろう。同行したスタッフから「先生がいてくれると違う」と信頼を得たという。「その後も訪問診療を経験し、病院とは違う魅力を感じています。今後は訪問リハなど地域医療にも力を入れたいですね」
渡辺氏はさまざまな診療科や病院を経験してきた。自ら積極的に動いたのは今回の転職だけで、それ以外は周囲の勧めがきっかけだったが、どれも後悔はないという。「事前にあれこれ考えても、実際に行動したからわかるというケースも多いのです。自分に声をかけられたことをチャンスと捉え、移った場所で一生懸命やれば得るものは必ずあると思います」
地域の誰もが頼る病院へと進化
回復期や緩和ケアなど地域に必要な医療を提供
石橋敏光氏が自治医科大学から派遣され、外科医長となった2002年以降、同院は毎年のように新棟や診療科の開設を続け、リハビリテーションセンター、回復期リハ病棟の設置によって回復期医療を担う役割を明確にした。「加えて在宅医療支援センターを軸に訪問診療、訪問リハ、訪問看護などを充実させ、急性期病院、在宅医療、介護施設というトライアングルの要役を担っています」
石橋氏も2005年に医局を離れて病院長に就任し、同院のダイナミックな変化を先導。近年は総合診療科も開設して、患者の大半を占めるコモンディジーズを診る体制を強化する一方、上越市および周辺地域になかった緩和ケア病床を設けるなど、最新の標準治療を身近に提供するため専門性の高い診療科も用意している。「渡辺先生も緩和ケア病床があったから来てもらえたのでしょう。近年は当院への入職希望の方から緩和ケアや訪問診療への問い合わせも増えていますし、新たな診療科の設置は地域の期待に応えると同時に、医師や看護師を受け入れる間口も広げてくれています」同院は数年先を目処に新たな病棟の建設も視野に入れるが、急性期病院と連携する回復期の病院、緩和ケアと在宅療養を支援する病院との立ち位置は変わらない。
「当院のキャッチフレーズは『誰かのために』ですが、いい医療によって患者さんに満足していただくことは、職員自身の喜びや成長につながり『自分のために』返ってきます。患者と職員の満足、この基本を外さなければどう変化しても病院は続くと考えています」
上越市周辺は患者が医療従事者を信頼する風土が残り、また医師や看護師、コメディカルも患者を思いやる気持ちが強いという。
「新しいことに取り組む際も、患者さんのためという思いで素直に協力してくれるケースが多かったことも、当院が変化し続けられた要因かもしれません」
地域の需要を探りつつ必要な医療を柔軟に提供したいと、石橋氏は同院の今後を見据えている。