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信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・59(島津家の鉄砲対策)

2018.01.25 00:00

永禄4年10月。

島津家の竜造寺攻めは苛烈を極めていた。


永禄4年10月。

肥前鹿島城に押し寄せた大友家の救援部隊だったが、城の前で仁王立ちする島津義弘の部隊を前にしては恐れおののくしかなかった。

漆黒の甲冑に身を包んだその姿は、まるで夜の闇との死の淵とも思えるような異様な姿だった。

大友家の城井鎮房は、火縄銃で次々に打ちかけるよう命じたが、何とその甲冑は鉄砲が効かなかった。


・・・・・・

『鉄炮記』によれば、天文12年8月25日(1543年9月23日)、大隅国の種子島、西村に一艘の船が漂着した。

100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を領主種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。

この船は8月27日(9月25日)に赤尾木に入港し、時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に商人の代表者は2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2丁を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。

・・・・・・

とある。

鉄砲伝来より20年、この国は各地で鉄砲を作るようになっていったが、早期に手にした島津家が進歩的だったのは、この鉄砲に対する甲冑の製造にも着手していたことだった。

南蛮の甲冑を買い求め、その模造を行っていたのだ。

その甲冑は島津軍全軍に行きわたるまではいかなかったが、重臣らには支給され、それゆえに、島津家の部隊は戦を恐れなかった。

そして一門でもとりわけ戦上手とも評された島津義弘の軍勢には、より動きやすく改良された最新の甲冑が侍大将にまで配られていた。


そんな肥前鹿島城での戦の様子が伝わるにつれ、救援に駆けつける大友家の軍勢は少なくなっていった。

それに反して、島津家の軍勢は北へ北へと後詰が続いた。

永禄4年10月。

陸奥福島城の戦いで敗れ捕縛されていた南部家の武将も、最上家に降伏した。

その中には南部一門の石川高信や知将として知られていた川原具信がいた。

他にも南条広継ら4名を家臣として登用した。



永禄4年11月の最上家の評定。

徳山館では天守として御殿の建築を池田盛周が命じられた。

また商業開発では、旧南部家の武将であった北信愛の計画が採用され、実行され、実行を命じられた。

また旧南部家の一門で重臣だった石川高信は、伊達家と最前線である寺池城へ配属が命じられた。




永禄4年11月。

松平家との停戦がされたはずの今川家だったが、重臣の岡部元信は織田家の救援を松平家が断ったという間者からの報告を前にして、これは良い機会と、当主・氏真に後報告で各地に出陣の触れを出した。

そして自ら出陣し、総勢5000もの兵で三河国へ侵入した。

松平家は北畠家に救援を要請するしかなかった。


永禄4年11月。

浦上家は三好家の援軍もあり、赤松家の姫路城を攻略に成功した。

永禄4年11月。

肥前鹿島城への島津家の猛攻は続いた。

猛将として知られる竜造寺家当主の隆信は、必死の防戦を行ったが、城へ駆けつける大友家の救援が全くなくなっていることを確認すると、気力が萎えていくのが自分でもわかった。


永禄4年11月。

寺池城の城主・白鳥長久より、伊達家が総勢22100もの兵で攻めてきているという報告がなされた。


永禄4年11月。

山形城の城主に任命されていた天童頼長より、伊達家が14500もの兵へ攻めてきているという報告がなされた。

寺池城、山形城ともに、悲痛な救援要請だった。

最上義守は当主・義光に確認するまでもなく、各地に戦の触れを出した。


この話を聞いた義光は、最上家にはこれを撃退するだけの兵力はなかったが、山形城の抜け道は未だ伊達家には漏れておらず、持ちこたえれるだろうと考えた。

また寺池城に関しては、元々伊達家の支配圏にあった城であり、時間稼ぎになれば良いという考えに至った。

戦力ではまだ勝てぬ。

また朝廷に停戦を頼むしかあるまいと、義光は考えていた。


伊達家の軍勢は3万6千にも達し、前回よりも大軍勢だったが、各地に出陣の触れを出した義守には絶望感はなかった。

あの頃とは動かせる軍勢の数が違っていたからだ。

我らとて2万は動かせる。

やりようによって、勝てるかも知れぬと考えていた。



永禄4年11月。

山形城侵攻の総大将は蘆名盛氏が命じられ、兵3100の兵で出陣していた。

また北方の天童城からも山形城へ向けても、兵1600の進軍が確認された。

山形城には兵1800ほどしかいなかったが、天童頼長はここが我らの死に所と、覚悟を決めていた。



永禄4年11月。

伊達家の寺池城侵攻の総大将は、鬼庭左月斎が命じられ、利府城より兵3300を率いて出陣した。

一方、最上家の寺池城は白鳥長久が守り、兵は1000ほどだった。



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「種子島」を検索してみましたら、207 件の画像がヒットしましたよ。


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