信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・60(伊達家との再戦、長尾家の参戦の恐怖!)
永禄4年11月。
伊達家と最上家の戦が再び始まった。
伊達家は停戦期限が切れると同時に、3万6千もの大軍で最上領に侵入した。
永禄4年11月。
最上家は前線の城である山形城と寺池城へ続々と救援部隊を送り込んだが、山形城ではすでに城が包囲され、寺池城にも伊達軍が押し寄せていた。
天童頼長隊は蘆名盛氏隊を思いのほか軽く追い返すことに成功したが、後詰で来る伊達家の大軍には籠城戦で迎え撃つしかなかった。
永禄4年12月の最上家の評定。
この月に東北地方は豪雪に見舞われたが、山形城や寺池城の辺りは免れ、戦は最上家劣勢との報告がなされた。
しかし良い報告もあり、その事態を聞いて、南部晴政が登城し、最上家へ忠誠を誓った。
最上義光は南部晴政に再び三戸城城主を命じ、伊達家との戦に参陣するよう命じた。
また寺池城に配属されていた石川高信には、改めて胆沢城城主を命じ、寺池城救援を命じた。
また徳山館では商業開発を引き続き北信愛の計画で行われた。
永禄4年12月。
寺池城に一番槍を突けたのは、小梁川宗朝隊だった。
城主・白鳥長久はこれを正面から迎え撃った。
永禄4年12月。
松平家の本城である岡崎城を巡って、今川家と松平・北畠連合軍は激しく激突した。
兵力では今川家が優勢だったが、松平家は挟撃作戦で今川家の部隊を各個撃破しようと目論んだ。
永禄4年12月。
肥前鹿島城は島津家の手に落ちた。
竜造寺隆信はこの時も混乱に乗じて脱出に成功し、さらに北方へと落ち延びた。
永禄4年12月。
最上家の鮭延貞綱隊は、楔ように最上領に打ち込まれた伊達家の天童城を包囲し、奪還のために強襲した。
永禄4年12月。
最上家の寺池城は瞬く間に伊達家のものとなった。
城主・白鳥長久は伊達家の大軍に包囲されると戦意を失い、たいして抵抗もしないまま城を明け渡した。
白鳥長久は最上家においては中堅どころの武将であり、最前線の城を任されるほどの信頼を得ていたが、このあっけない降伏は近隣の国人衆の最上家への信頼を失わせた。
だが白鳥長久からしたら、この城は長らく伊達家の支配下にあり、最上家が決戦をする場ではないと考えていた。
恥を偲んで降るのも、最上のため自分に言い聞かせた。
永禄4年12月。
寺池城の敗戦がある一方で、天童城は鮭延貞綱隊らが強襲し、長門広益隊が城壁を乗り越えて城を奪還した。
さらに、山形城を抜けて天童城へ進軍してきた河東田清重隊と激突し、これを撃破した。
永禄4年12月。
天童頼長は奇妙な感覚を覚えた。
蘆名盛氏が再びこの山形城に向けて出陣したという報告を聞いた時に、何かが変だと思った。
蘆名盛氏は3300の兵を率いていた。
簡単に撃退できる相手ではなかった。
何か別の目的があって、一時撤退したのかも知れぬと。
そしてその予感は当たった。
永禄4年12月。
伊達家領内に放っていた間者から、恐るべき報告が山形城内に届けられた。
伊達家領内を、長尾家の軍勢が行軍しているという報告である。
長尾家は伊達家と友好関係にあり、伊達家と戦をすることはないだろう。
となると、答えは一つしかなかった。
長尾家の最上家への侵攻だった。
総兵力は、伊達家5万、長尾家5万。
一方の最上家は2万5千。
この戦が長引いては、最上家にはどうあがいても勝ち目はないと、天童頼長はすぐさま最上義守と義光のもとに間者を走らせた。
最上家は再び滅亡の危機に陥ったのである。
そしてこの報告が届けられた時、義守は再び身震いしてふさぎ込み、義光は深く考えたという。
朝廷の停戦は伊達家に使う。
長尾家の軍勢は、長尾家の兵力のすべてではない。
これは撃退する。
俺は戦う。
皆にそう伝えよと、側近の氏家守棟に話した。
幸いなことに、長尾家の軍勢は、米沢城防衛のために伊達家が要請した長尾家の救援部隊だったことが判明する。
しかし最上義光の長尾家とも一戦も辞さない覚悟は、後に長尾家当主・長尾景虎の下にも届く。
景虎はこの義光の気迫を快しとし、最上家との敵対関係解消に努めるようになる。
軍神・長尾景虎とは、そういう男なのである。
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