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江戸町巡り

【赤坂①019】青山北町

2017.12.05 15:29

町番号:赤坂①019

町名:青山北町 一~六丁目

読み方:あおやまきたまち Aoyama-Kitamachi

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:1966(昭和41)年9月30日

冠称:「青山」、さらに1947(昭和22)年3月15日から「赤坂」

現町名:港区北青山一~三丁目

概要:古くは、一~五丁目辺りは原宿村、六丁目辺りは上渋谷村の田野だったが、1590(天正18)年、徳川家康の関東入国の後、一体は青山忠成の屋敷として与えられ、青山という地名の起こりとなる。江戸時代には篠山藩青山家の他、龍野藩脇坂家、広島藩浅野家、一関藩田村家、柳本藩織田家等の大名や百人組同心大縄地(青山百人町)をはじめとする幕臣の屋敷地、善光寺や海蔵寺、高徳寺等の寺社があった。

1872(明治5)年、青山通りの北及び北西側の青山和泉町青山北和泉町青山久保町青山原宿町(現・渋谷区神宮前三丁目だが、当時は赤坂区だったのか不明)、青山善光寺町、旧武家地、寺地を併合して一~七丁目が起立。同年の戸数903・人口3,738、物産は傘、生茶、桑、繭、藍等がある(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府赤坂区に所属。1886(明治19)年、一~三丁目の裏手一帯が陸軍青山練兵場となる。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市赤坂区に所属。その際、七丁目は東京府南豊島郡渋谷村に編入、大字青山北町七丁目となる。1891(明治24)年には一丁目に陸軍大学校、1900(明治33)年には青山師範学校が移転。青山練兵場の敷地は、1908(明治41)年に大博覧会敷地に認定されたが(博覧会は1913(大正2)年に無期延期)、1913(大正2)年に明治神宮の社地に選ばれた。なお、1918(大正7)年には三丁目に女子学習院が転入。1926(大正15)年、神宮外苑が竣工。六丁目より明治神宮へと向かう表参道が設置。1943(昭和18)年7月1日、東京都赤坂区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。戦後は青山通りを中心にビル化が進み、赤坂・六本木と並び評される先端的な繁華街へと発展を遂げ、一丁目の陸軍大学校は区立青山中学校と都営アパート、三丁目の女子学習院は秩父宮ラグビー場等、五丁目の青山師範学校跡が都営住宅に整備された。

住居表示の実施により、1966(昭和41)年10月1日、一丁目が北青山一丁目に、二丁目が北青山一・二丁目に、三・四丁目が北青山二丁目に、五・六丁目が北青山三丁目に編入となり消滅。

撮影場所:青山北町二丁目

撮影地:港区北青山二丁目1番(明治神宮外苑いちょう通り)

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