【四谷①027】元鮫河橋南町
町番号:四谷①027
町名:元鮫河橋南町
読み方:もとさめがはしみなみちょう Moto-Samegahashi-Minamichō
区分:町丁
起立:1693(元禄6)年か1696(元禄9)年
廃止:1943(昭和18)年3月31日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「元鮫河橋」
現町名:新宿区南元町
概要:古くは「豊島郡山中庄」、「山中領」等と称し、安土桃山時代には「山中村」と称していた。1591(天正19)年、徳川家康が江戸城に入ると、同年11月18日に鷹場に指定された。谷間の湿地帯のため開発が遅れたが、1664(寛文4)年に伊賀者組屋敷となり、一ツ木村と称した。
承応年間(1652~1655年)から百姓町屋が開かれ、域内に永固山一行院(俗に「千日寺」と称す)があったので、俗に「千日谷町」、「元鮫河橋千日町」と称した(備考)。
1693(元禄6)年か1696(元禄9)年、それまで「鮫河橋千日谷町」と呼ばれていた百姓町屋が「元鮫河橋南町」と改称して町奉行支配地となる。鮫河橋の低湿地は当初より劣悪な住環境であったとされ、元鮫河橋八軒町では、誉田坂から当地に代地を与えられたところ、埃の舞う劣悪な環境を嫌い、8軒しか移住しなかったためその名が付いたという。また、本来伊賀者の土地であったため、町人に家持が不在のまま店借の貧困層が集中し、治安の悪化を招いたと指摘される。『紫の一本』では「寂しさや友なし千鳥声せずば何に心をなぐさめが橋」と詠まれる。
1702(元禄15)年5月27日、吉原訴訟書上に「鮫ヶ橋」の名が出ており、当時から売春宿があった。江戸時代中期には岡場所として知られ、後期には本所吉田町(現・墨田区石原)と同じく切店2箇所に夜鷹屋が存在した。こうした最下級の私娼は多く梅毒を持ち、罹患すると鼻が欠けることを揶揄して「花散里は吉田町鮫河橋」と詠まれている。
1828(文政11)年の家数153軒(町方書上)。元鮫河橋仲町の二ノ橋より元鮫河橋表町へ出る道は「貧乏横丁」と称された。『藤岡屋日記』では1860(万延元)年に極貧者の集まる町として四谷鮫河橋、下谷万年町、芝新網町が挙げられており、1868(慶応4)年7月には十五番組名主次右衛門支配8ヶ町について「其日稼之者人別書上」において実態調査が行われている。この3町は明治時代に農村から流入した貧困層が集住してスラム街が形成され、下谷万年町、芝新網町とともに「三貧窟」と呼ばれたが、この中でも鮫河橋は最大規模だった。市谷本村町の陸軍士官学校寄宿舎で出た残飯が売られ、繁盛したという。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に元鮫河橋八軒町、1872(明治5)年に武家地と寺地を合併。当時の戸数118・人口389(府志料)。1877(明治10)年に長善寺に三銭学校創設。
1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市四谷区に所属。「東信濃町に連なれる丘陵一帯の地には邸宅あり、赤坂区に接する南の一画には寺院多し」(画報)。明治末年頃には地価が上昇して貧困層は転出して行き、関東大震災を経て貧民窟の面影は全く見られなくなった。1906(明治39)年に二葉貧民幼稚園ができる。三銭学校に続き、慈善家による教育の普及が図られた。
1911(明治44)年5月1日、「鮫河橋」の名はにスラムとして有名であったことからか冠称を外す。1943(昭和18)年4月1日、元町と合併し、南元町を起立し消滅。現行の南元町の南半部。俗に「千日谷」と称する一帯であり、千日寺前の坂を「千日坂」という。
なお、町内にある「鮫ヶ橋せきとめ稲荷」は、新宿区立みなみもと町公園の一角にある。「せきとめ」とは、鮫川の流れる下流に紀州藩邸を造るにあたって、川をここで堰き止め、その堰を守る目的で造られたのが由来だという。ただ実際は、鮫川の水源は、元鮫河橋北町の永井肥前守屋敷と隣接陽光寺境内鐙ヶ淵の2ヶ所で、そこから紀州藩邸内の池に流れ、最終的には溜め池に至ったらしく、堰き止められたわけではない。嘗ては氏名年齢を書いた紙をせきとめ神の近くの木に結びつけると咳が止んだとの話もあった。
撮影場所:元鮫河橋南町
撮影地:新宿区南元町12番地(民家)