【牛込①002】市ヶ谷本村町
町番号:牛込①002
町名:市ヶ谷本村町
読み方:いちがやほんむらちょう Ichigaya-Hommurachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:存続
冠称:「市ヶ谷」、1911(明治44)年5月1日から「市谷」
現町名:新宿区市谷本村町
概要:古くは豊島郡野方領市谷村に属し、江戸開府以前に島田主計等7人の浪人の手で開拓され、「市谷本村」と称した。この7人は家康の江戸お討入りの際、川崎まで出迎えに行った。1672(寛文12)年、代官支配地となり、1713(正徳3)年、町奉行支配に代わって「市ヶ谷本村町」とした。1828(文政11)年の家数73軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、尾張名古屋藩徳川氏上屋敷、御先手組屋敷を併合、一部を四谷坂町に編入。同年の戸数117・人口503(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府牛込区に所属。1880(明治13)年に南の一部が四谷区(現行の四谷本塩町北部)に編入され、1881(明治14)年には市ヶ谷田町四丁目(俗に「中小屋」又は「牛屋敷」と称した)を併合。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市牛込区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都牛込区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。
1984(昭和59)年11月5日、住居表示の実施により、市谷本村町の大部分と、坂町、本塩町、市谷薬王寺町、市谷仲之町、片町の各一部(全町道路のみ)と境界調整を行い、現行の「市谷本村町」とした。なお、42番地(中央大学市ヶ谷キャンパス)はいまだに住居表示未実施である。
※1907(明治40)年の『東京市十五区番地界入地図』(東京郵便局、東京逓信管理局編纂)には「市ヶ谷本村町」と「ヶ」あり。逆に河田町は「ヶ」なしとなっている。
尾張徳川氏上屋敷跡は当町42番地で町域の大部分を占め、戦前は陸軍士官学校・陸軍中央幼年学校・陸軍野戦砲兵営が置かれ、現在は陸上自衛隊市谷駐屯部隊の用地。本塩町との境を北に下る坂道を「比丘尼坂」といい、大奥務めを終えて剃髪した老女を収容した屋敷があったことによる。外堀通りの坂は幕臣・高力氏の屋敷があったので「高力坂(こうりきざか)」という。
撮影場所:市ヶ谷本村町