高樹沙耶エッセイ…虹の豆日記 「記念日 命日」
10月25日...。私はこの日を一生忘れないだろう。
勘の鋭い読者なら既に気が付いているだろうが丁度一年前のこの日、私は例の件で逮捕された。
このサイトのタイトルにもなっている「Hemp」。そう大麻の一件でだ。
あの時は一体何が自分の身何が起こったのか理解できず「嗚呼、これで私の人生は終わった」とか「このまま死んでしまうかも...」「いや、いっそのこと自分から死んでしまったほうが世の中のためになるのか」と本気で考えていた。
もともと大雑把な性分な上に都合の悪い事はサッサと忘れてしまうノー天気な性格もあってか、家族の誕生日はおろか、これまで付き合った彼氏や友人の誕生日や記念日なんて覚えることも無かった私だが、この日だけはどんなに年を取っても一生忘れないだろう。
あの日から三ヶ月間独居房に身柄を拘束され、そこから更に判決言い渡しを含む計4回の裁判の為、三ヶ月間。合計六ヶ月間、今いる石垣島の自宅にも帰れない日々を沖縄本島内の仮の住まいで、行動に制限を受け、判決までの日々を悶々として過ごした。
実を言えば判決後の自由の身となってからが、もっと大変で、半年間も仕事も収入も無い期間を過ごした上に弁護士費用だのその期間の生活費だの、帰ることもできない家や売り上げも全く無い施設の維持費で元々あまり貯えの無かった貯金は一気に危険水域まで減り、それに加え、仮釈放後に知ったあの一連の報道のショックとトラウマで、パニックというか鬱というか、人前に出ていくのが恐ろしくなっていったのだ。
実は私にとっての本当の試練はここからだった。
TVのニュースやネットで何度も取り上げられた判決直後の例の会見はそれなりの決意と覚悟で望んだ真剣なものであったのだが、後から思えば当時は、多少の興奮状態で自分の置かれた状況をまともに把握出来ていなかったのかもしれない。家にやっと帰れるという安堵と自由になれるという気持ちと一つの区切りがついたという勢いでできた事で、その後の生活をあの頃、多少なりとも想像できていればあの時にあんな会見を開くなんて事は絶対できなかった。そして、あの会見の後から私は自分の置かれた状況を少しずつ理解しながら、未来への不安からだんだん正気を失っていった。
それこそこの時、死んでしまった方が楽だったと毎日思い悩むほどに...。
日記と名の付くコラムに執筆しているのに一年前の暗い話ばかりでは何なので、この続きはまた次の機会に。で。あの一件で世の中の信用や仕事に財産、そして自身の健康と半年もの時間と、多くのものを失った私だったが、生きてく為には飯を喰っていかなければならない。幸いココには私が理想郷を夢見て開拓を始めた「虹の豆」という施設が残った。この場所に来て6年、これまで台風だ、参院選出馬だと落ち着きのない私の性格も災いし、まともにオープンも営業もできずにきたが、今年の7月、その後のご縁や周囲の協力や支援者の助けもあって「キャンピングロッジ虹の豆」と名前も新たにし、何とか宿の営業を開始した。火事場の馬鹿力というか悪運の強い女というか、今は何とかここでの生活を続けられる程度にお客さんも入り始めた。何より、こんな何もない変わった宿だけど、宿泊して頂いたお客さんが満足そうに笑顔で宿を後にする。
何組かのお客さんを迎え、最初は初めての宿の女将という役に戸惑いながらも、これなら何とかやっていけそうだ、そんな風に思えてきた矢先にSNSを通じて仕事の依頼が来た。インターネットでのコラムの執筆依頼。そう、このコラムである。
『一年は何もせずに大人しくしてろ』『執行猶予の3年はメディアでの露出はするな』など、各方面からの助言や時には脅しにも近いアドバイスを受けていた私は当初、この仕事を断るつもりでいたが、ふとあの日から一年を迎えようとしている事に気が付いた。
眠れなくなる程の茹だるような暑さの夏も過ぎ、恐怖に一人部屋の中で震えた台風も何とかやり過ごした。ついこないだまで地面を這いつくばっていた蛍の幼虫たちがやがて羽を持つ光る玉となり、虹の豆の中を飛び始めた。石垣島に秋の気配が漂ってきた。雨模様の空や突然の晴れ間、時々曇りと安定しない空模様の季節の変わり目だが、涼しくなり始める石垣島のこの時期の湿っぽい空気が私は嫌いではない。
バナナにパパイヤ、グァバにシークァーサー。今年はこれまでにはない程の多くの収穫物が虹の豆の施設の中にある畑から取れた。無農薬、自然栽培とは言ってはいるが、実際にはほったらかしにしていただけなのだ。まぁ、牢屋にいて半年以上も家に帰れなかったので、ほったらかしは当然なのだが...。
6年前に石垣島に来て色々な果実や野菜を植えてきたが、不思議なことに今年は今までで一番多くの収穫のあった年になった。しかも植えた記憶も世話をした覚えもない場所にパパイヤの木が生えてきて、そこからの収穫もあったりした。どうやら虹の豆に飛んでくるカラスがパパイヤの実を食べ、敷地に種入りの糞をして、そこからいつの間にか芽が出て木となり、今年、実をつけたのだ。半年以上もほったらかしにしていたのにだ。これを“ウン”がいいと云えばいいのか。そして宿を訪れる運の良いお客さまにはウェルカムフルーツとして、お土産としてサービスできるほど多くの恵みがあり、宿のメニューにはないサービスとして皆にとても喜んで貰えた。家の食費も助かった。まさに捨てる神あれば拾う神あり。
宿をオープンして最初の頃のKさんという父親と小学生の男の子という親子のお客が虹の豆に訪れた。SNSを通じてこの宿のオープンを知り、夏休みに沖縄の自然を子供と体験しようとオープンしたての虹の豆を選んでくれたのだ。宿を気に入ってもらった様子で、その時は予定を切り替え2泊ほど多く利用してもらった。ある夜、Kさん親子と夕食を一緒にする機会があり、夕食後に満天の星空の下、この旅での話や世間話で盛り上がっていたら、Kさんはいつの間にか父親の膝で眠る子供を優しく撫でながら「実は私も昔...」とかつて私と同じ件で檻の中に入った話を切り出し始めた。それから会話はお互いの共有する収監生活のあるある話や、その時のそれぞれのエピソードを披露しあう形で大いに盛り上がっていった。宴も終わる頃、膝の上でむずがる子供を抱きかかえながらKさんは「沙耶さん。これからも貴女のした事を色々いう人もいると思いますが、悪い事をしたのだと落ち込まないで。貴女はみんなの為に前に出たのだから。いつかこんなこと笑い飛ばせる日が来ますよ」と白髪の髭の顔に満面の笑みで別れ際にそのような事を言われた。帰宅の途中、その時の言葉を思い出しながら、こみあげるものがあり涙があふれてきた。きっとKさんは弱みを見せまいと気丈に振る舞う私を見抜いて、元気付けてくれたのだ。宿を去ってからも宿泊のお礼にと地元の美味しい野菜を送ってくれた。「今度は家族みんなで遊びに行きます」とメッセージを添えて。
有形、無形で宿代以上の何かを私は頂いた。
まだ私にお役に立てる事があるのであれば、こんな私のとりとめもない話を楽しんでくれたり、励まさられたりする人がいるのであれば、虹の豆の自然の恵みをこんな年に分け与えてくれたように、私の今回の経験もこれからの生活もこのコラムを通じて皆にシェアしてもらおう。実を言えば一年前のあの日、私の身に起こったあの出来事は今も完全には理解できてはいない。それ故にいまだにあの日を悔い、呪い、一日に何度もやり直せないかと思い悩み、時には涙する。きっと一生、理解できる日は来ないかもしれない。でも、こうやって発信する事はできる。
2017年10月。まだ正気でないかもしれない私はこの仕事を受けてみることにした。
まぁ、私の経験はこの島のフルーツみたいに甘くも美味しくもないかもしれないが。
(2017.10.25)