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No.622「マイタケ採りの思い出」「今年も、是非」「沖縄の風」

2021.10.02 05:17

2021.10.02.No.622

「 マイタケ採りの思い出 」

なな.

  高志が山からマイタケを採って帰ってきた。写真になると大きさや重さが解らなくなってしまうのが残念だ。梅干を干す用の直径60㎝程の盆ザルの上のずっしりと重い天然マイタケ。その強い香りで記憶がよみがえる。 

 随分前になる。縁あって今の水の里へ通うようになった。山奥の小さな村に現れたTシャツにビーチサンダルのちょび髭親父と、娘程年の離れた若い女。警戒して当たり前。「なんだ?こいつらは?」という様子。それでも足しげく通う内に、今もお世話になっている「むらおさ長さん」奥さんの「山のお母さん」とは少しずつ打ち解けて行った。 

 27年前になる秋の日に、マイタケ採りに同行させてもらった。「七菜ちゃんには無理じゃないか?」と言われたが、道なき山の中を汗だくになって必死に長さんについて行った。どこをどう歩いたかも判らない。ついて行くだけで何も考えられないほど大変だった。「よくついて来たな~」マイタケ採りを機に長さんが少し認めてくれたように感じた。行ってよかったと思った。でも、もうその後はマイタケ採りにだけは行かなかった。


「 来年も、是非 」         

高 志

 前回の配達のときも台風が気掛かりであったが、今回もまた猛烈な勢力を保ちながら接近している。そんな季節だと言ってしまえばそれまでだが、その実は台風の進路一つとっても全く今までとは異なるものだということがわかる。

 それは何も台風に限ったことではなく、平時であっても『あれっ!?』と首を傾げたくなることが多い。昔からの言い伝えの一つに『暑さ寒さも彼岸まで』というものがあるのだが、昨今の特徴はお盆休み頃から気温が一気に下がり、そしてお彼岸の頃にまた気温が上がり始めるようである。その典型例として、今年の富士山初冠雪の発表と、その後取り消されたことが挙げられるだろう。富士山の初冠雪発表は、富士山頂の日中の平均気温が最も高かった日の後に冠雪が確認されると発表となるのだが、今年はその初冠雪発表の後になって、改めて日中の平均気温がそれまでのよりも上回ってしまったものだから、取り消されることとなった。 

 9月に入って秋の気配を感じることが多い反面、日中は真夏のような厳しい陽射しに照らされ、着るものに困るといったことが多い。 それは水の里でも同じで、夜になると10℃前後まで気温が下がるので、ストーブをつけるか布団を被ってやり過ごすか迷うほどなのだが、日中は半袖1枚でも汗ばむほどだ。 

 さて、そんな寒暖差の激しい状況だと、山の木々やキノコたちもどう反応して良いのか迷っているようで、9月の初めに色替わりを始めた木々の葉は、それから1ヶ月もの間特に変化することも無く10月を迎えようとしている。 

 そうなると、困ってくるのがキノコ狩りで、昔のようにキノコが出ていようがそうでなかろうが、がむしゃらに山を歩いていた頃とは違い、体力的に1回が勝負になる。山を飛び回っていたあの頃、何故村おさ・長さんが収穫物の無い所謂”空戻り”を嫌っていたのか、今なら分かるような気がする。自然相手ゆえ、採れる時もあるがそうでない時があっても良いではないかと、あの頃の僕は思っていたし、確かにそうなのだけれど、いつでも行けなくなり、1回1回が勝負になるとそんな悠長なことも言っていられなくなる。 ならば、どうすれば良いのだろか。情報を集め、過去の経験則に照らし合わせて分析するしかない。今回は、その情報を若旦那のとも君がもたらしてくれた。東北釣堀苑の常連さんで、まだマイタケ採りに言ったことが無いお客さんを、マイタケ採りに案内するという。

  3時間後、彼らは背負い籠3つ分のマイタケを背負って帰ってきた。マイタケの出方からもうシーズン後半のようだという。それならばと、翌日水の里から少し離れた、とっておきの山を歩いて見ることにした。数年前に、5㎏を超える過去最大のマイタケを採った場所だ。 

 尾根伝いに登るのだが、案の定山の中腹で頭のてっぺんから汗が吹き出し、鼓動が激しくなる。急斜面ゆえ、木の枝や蔓につかまらないと登れない。何度も足を滑らせては、細い枝にしがみついて難を逃れる。そんな事を繰り返すうちに、気になるミズナラの木が目に飛び込んできた。遠目からだが、ナラタケのようなキノコが目に入る。近寄ってミズナラの木の根元を確認すると、ナラタケの脇にまだ採るには早いマイタケの幼菌が見つかった。『なんだよ~、これじゃ採れないじゃん!!』と天を仰ぐと、右上手に今度は採るに足る成菌のマイタケが鎮座していた。 

 いつも思う。『絶対に採ってやる!!』と意気込んでいると、中々見つからない。マイタケへと導いてくださいと心の中で唱えていると、不思議といかにも出ていそうな大木が目の前に現れてくる。必ずしも毎回見つかる訳では無いのだが、そのうちの何本かにマイタケが出て来てくれるのである。今回もどうにか”空戻り”することなく、山の恵みをいただくことができた。季節の移り変わりが変化するなか、また来年も是非と祈り山を後にした。 


「 沖縄の風 」          

上田 隆

 北海道へはときどき電話する。今日は沖縄へ。どっちが遠いんだろう。 

大阪 札幌市  1000kmあまり 
大阪 沖縄うるま市 1200km弱  

 「これはこれはウエダさん」

  おふざけめいた話し方が聞こえた。ウダちゃん、元気そうや。 

 「金城実半生記 だいぶ書けたん?」

  金城実氏は彫刻家であり闘志の塊の社会活動家で知られる。ウダちゃんは金城実さんのことをまとめた本にすることをライフワークに定め、沖縄に移住したのだ。 

 「三年かかるでしょう。まだ半年。金城さんの彫刻は全国に散らばっている。それらを探し出してまとめるのは大仕事なんや」

  その彫刻は慟哭と怒り、沖縄の闘士の荒々しい姿が迫ってくる。

 『1609年には薩摩藩が琉球王国を侵攻、明治政府の「琉球処分」で強引に日本の一部にされた。1945年の沖縄戦では本土の“捨て石”にされ、県民の4人に1人が亡くなった。戦後は米軍に占領され、県民の土地が次々と奪われて基地になった。 政府は口先で『沖縄県民に寄り添う』と言いながら、裏では蹴飛ばしている。それが一番、腹が立つ』

  知らん顔を決め込む我らヤマトンチュー (本土人)。

 「ところでウダちゃん、あんたの島は沖縄本島と道路や橋でつながっているんやな」

 「うん、以前は近いけれども離島やったけどね。家の水は井戸、トイレは無いよ」  

 「オレ、インドのバラナシ外れのアッシー・ガートで住んでいた。水は共同水くみ場に並んで素焼きの甕を頭に持ち帰る。素焼きだから気化熱で冷えてうまかった。もちろん電気来ていない。ガス? なんじゃ?それ? 炭はバザールで売っている。トイレは聖河ガンガのだだっぴろい河原、どこでもご自由にや」

  「買い物は海中道路を自転車こいで片道50分。もう歳やね、この前こけて、それから杖が離されへんよ」 

 「オレも一緒、この前初めてのところで段差見落とし仰向けに転倒。左足首を思い切り伸ばし、左膝は限界突破の折りたたみ。キツイ捻挫は4ヵ月経っても杖頼み。あっ、こんなボヤキ話、あかんな~」

 「そんなことないよ。自然なことだよ」 

  沖縄の風が吹いている。