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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 176 (31/03/22) 旧浦添間切 (16) Gusukuma Hamlet 城間集落

2022.04.01 12:31

旧浦添間切 城間集落 (ぐすくま)


屋富祖集落を巡り終えて、隣接する城間集落に移動する。この字にはこの日だけでなく、次の週の4月5日にも訪れた。



旧浦添間切 城間集落 (ぐすくま)

城間部落は市の西側にあり、西は東シナ海に、南は屋富祖に隣接している。戦前の戸数は392戸と浦添村ではいちばん大きな村落であった。昭和58年3月現在1,050戸と2.5倍にも増えている。字城間は、嘉門、嵩下、淑口、 和奈、中空寿、東空寿、西空寿、赤畑、東唐蒲、後原、西唐蒲、木根、東田田、西田田、 城間原、前原、北宇治真、南宇治真、大川、泉座、前田、春川、南前田の23小字からなる大きな字だった。城間部落の旧部落は、国道58号線の西側一帯にあり、戦後、米軍によって接収されたためやむなく現地に移動してきた。

戦前は、南北に伸びた比較的大きい農村をなし、南端は斜に走る県道に沿っていた。それが、米軍によって、全村落、現国道をはさんだ畑、原野、松林だった東側一帯の丘陵地に移動している。屋富祖と隣接しており、現在ではこの二つの集落が接続して市街地を形成している。旧部落跡は、全く戦前の姿を失い、御嶽や拝泉のあった場所もはっきりしない。 戦前は、城間西瓜が有名だったそうだ。琉球王府時代には、中国から冊封使一行が来琉の際は、 薩摩奉行がこの地に移り、姿をかくす慣例になっていたという。昔は、城間村には、城間と又吉の2つの村があったと伝っている。城間村は前村渠と後村渠に区分され、旧又吉村が前村渠となり、旧城間村が後村渠となっていた。


明治時代は城間集落の人口は断トツで、戦前までは最も人口の多い字だった。その後は他の地域の人口の増加率が高く、抜かれていき、現在では5番目に人口の多い地域になっている。

首位は明け渡してはいるが、それでも人口は多い地域だ。

人口の伸び率は他の字に比べて低い。民家分布の変遷を見ると、字城間の基地以外はほとんど住宅地になっており、これ以上住宅地の開発は見込めないだろう。キャンプキンザ―の返還により、この城間は大きく変わる可能性がある。

キャンプキンザ―は返還は米国、日本両政府で合意されているが、その条件は2006年の日米両政府の協議で基地内施設を他の基地 (嘉手納弾薬庫知花地区) に移設が完了、国外に移転する部隊の支援機能の解除となっているが、移設先計画が進んでおらず、また国外への機能移転は米軍に依存することから、当初2025年とされていた返還は遅れる見込みだ。返還が合意されたことにより、跡地利用の計画が協議されている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: コバ森 (神名: イシノ御イベ、消滅)、 雨影 (アマカケ) 之獄 (神名: マネヅカサ御イベ、消滅)、古重獄 (神名: 羽地コイチコイチョウガナシ、消滅)、波平森 (神名: ツカサ御イベ、消滅)、屋富祖カマ之嶽 (神名: ツカサ御イベ、消滅)
  • 殿: 内原之殿の殿 (消滅)

城間集落で行われていた祭祀行事については情報が見つからなかった。城間集落ではかなり詳しい字誌を発行しているのだが、村の拝所、拝井泉、祭祀に関しては全く記載が無く、ほとんどは戦後の復興についてだった。集落にあった拝所の多くは基地内で消滅しているで、それも仕方がないのかもしれない。琉球王統時代から明治時代は浦添間切では一番人口の多い村だったせいか、城間集落だけを管轄していた城間ノロによって祭祀が行われていた。


城間集落訪問ログ



屋富祖集落から城間集落に移動する。この二つの集落はぴったりと隣接しており、集落の境界は住所表示板でしかわからないほど。城間集落は戦後、米軍基地に集落が丸々接収されて、収容所から帰還がかなってから、村づくりがされた場所。浦添市の中で元の村に帰れなかったのだ小湾とこの城間の二つ。他の集落住民はが元の村に戻り復興にあったったのとは状況が異なる。村への期間がかなわないことを知った時の住民のショックは計り知れない程大きかっただろう。それでも、現在の国道58号線の東側の畑や山林、原野だった土地に集落住民総出で、住民たち自ら道路を造り、敷地を75坪くらいに定めて区画整理し、一軒ごとに家を建てて新しい部落城間を形成した。当時は戸数は約440戸だったそうだ。現在の様に、行政の支援などはなく、住民が協力して米軍から廃材を調達して造っていった。これが沖縄人の逞しさだ。まずは、新しくできた集落から巡る。



城間公民館、皇城 (コーグスク) 跡

公民館が位置している小高い丘は現在ではマンション住宅が密集しているのだが、昔はこの一帯は皇城 (コーグスク) といわれていた。城塞としてのグスクではなく、第二尚氏の17代尚灝王 ( 1787生、在位1804~1827年) の側女の出産地と伝えられている。尚灝王は1妃、2夫人、8側女がおり、9男17女の子をもうけたそうで、歴代琉球王の中では大記録を作っている?尚灝王については次回訪問先に尚灝王の隠居屋敷跡があるのでそこで詳しく触れる。


合祀祠

公民館の前の広場の傍に祠が設けられている。もともとの村屋その周りの拝所は米軍基地として接収されたので、戦後ここに移転して合祀してある。向かって右から古重嶽 (クジュウ)、内原之殿、波平森、コバ森、雨影 (アマカケ) 之嶽、又吉之殿、屋富祖ガマ之嶽が祀られている。入り口に平べったい大石が置かれていた。変わった形だ。集落の拝所で祀っていた霊石なのだろう。このすぐ裏にノロ殿内があり、火の神、後村渠、祝女殿内、前村渠が祀られているそうだが、民家で神屋などは見当たらなかった。資料では写真は載っているのだが、場所は記載されていない。公民館に人がいれば聞けたのだが、また、この近くを通ることがあるので、その時に尋ねて見よう。

資料には以前の拝所の写真があった。現在のものは随分と立派になっている。


鎮魂之碑

合祀祠の前に戦争で亡くなった人への慰霊碑が置かれている。その傍らには、犠牲になった住民の名が記されている。460柱が慰霊されており、沖縄戦で亡くなった人はそのうち407柱になる。この慰霊碑は平成元年に建てられている。

別の資料では、沖縄戦での戦没者427人で、集落人口の37%になる。


尚金福王の墓への遥拝所

公民館と道を隔てた場所はGoogle Mapでは第一尚氏の第五代尚金福王の墓への遥拝所となっていた。その場所は現在は駐車場になっており、インターネットに写真 (下) が出ていたが、遥拝所は無くなっていた。

尚金福の墓はキャンプキンザーの敷地内にあり、立ち入りができないので、ここに遥拝所が置かれた。基地内の墓は仲井真にある側室の墓に2012年 (平成24年) に移葬されている。この時にこの遥拝所も撤去されたのだろう。仲井真の墓へは202年5月に訪れた。


カーグヮー跡

公民館の西側、国道58号線への間にある同仁病院の駐車場への入り口に拝所がある。祠の隣に塩化ビニール製のパイプがあるので井戸跡と思える。民俗地図ではこの辺りにカーグヮーと書かれている。カーグヮーは井泉小と書くと思われるので、この井泉の拝所だろう。


屋富祖井泉 (ヤフソガー)

公民館の南側、ちょうど字屋富祖と字城間との境界の民家の隙間に両字住民が使っていた屋富祖井泉 (ヤフソガー) がある。まだ水はあるようで、マンホール形式になっている。


屋富祖カマ之嶽跡 (未訪問)

資料には琉球国由来記に記載ある屋富祖カマ之嶽 (神名ツカ サ御イベ) があった場所の写真が掲載されていた。屋富祖村と城間村との村境の小高い丘にあったというが、現在は個人の住宅になっていて消失しているそうだ。ここがどこなのかは地図もなく不明だが、屋富祖村と城間村との境界線は西と東両側に向かって下っているので、一番高い場所付近だったのだろう。


泉小公園、おもろの碑

公民館の東には泉小公園がある小高い丘が公園になっている。この公園内におもろの碑が置かれていた。城間の長老の広い庭に神女たちがつどい、神歌をうたい、踊りつつお祭りを詠んだおもろになる。(歌のなかの又吉は昔、城間村の隣にあった村のこと)


一 ぐすくまの あさいによ
  あさいによ ひろみやに
  おれなおせ
  かみた かみ
又 またよしの あさいによ


  城間の長老様
  長老様の広い庭に
  降り直せ
  神たち 神
  又吉の長老様


城間南公園

屋富祖大通りは字城間と字屋富祖との境界線にもなっているのだが、この大通りを字大平方面南東に向かった所にも公園があった。特に史跡とか文化財も無いのだが、公園にはグスクの琉球石灰岩の石垣城門が置かれていたので目に留まった。


ウシモー跡、うしもー公園

公民館から国道58号線の城間交差点近くにうしもー公園がある。地図を眺めていて見つけた。ウシモーは牛毛で牛の広場でつまり闘牛場跡と思い、来てみた。やはりそうだった。ただ公園は狭く、とても闘牛ができる広さは無い。石碑の下に説明板があった。闘牛場はここではなく、ここから少し北東のうらそえショッピングセンターがある場所だった。城間の人たちの記憶に残すためにここをウシモー公園と名付けたと書かれていた。

近くには城間の闘牛の壁画があった。今は闘牛場もなく闘牛も無いのだが以前行われていた城間の闘牛の写真があった。


軽便鉄道城間駅

うしもー公園のすぐ北の国道58号線の城間交差点近くには軽便鉄道嘉手納線の城間駅があった場所になる。

路線は内間駅からパイプライン通りを北に北東に伸び、途中で城間通りを北に向かって城間駅に達する。


泉町社交街

軽便鉄道が走っていた道が城間通りなのだが、軽便鉄道は戦争で破壊され、それ以降は沖縄では線路が敷設され電車が走ることは無かった。戦後、この城間通りは、米軍基地の兵士たちの飲み屋街で栄えていた。城間通りと交差する屋富祖大通りも飲み屋街で栄えていた。屋富祖の特飲街は白人向けで、こちらの城間特飲街は黒人向けだった。この区別はきっちりと守られていたようで、黒人兵士が屋富祖特飲街に行く事はなかったそうだ。特飲街とは言っても歓楽街でもあった。黒人兵士が女性を求めて出入りしており、問題もしばしば起きていた。そこで、歓楽街を集落から少し離れた所に造る事になり、かつて闘牛場 (ウシモー) の南側の土地を歓楽街として開発した。ここが泉町社交街と呼ばれていた。


基地内の拝所跡

琉球国由来記に記載のあるコバ森、 雨影 (アマカケ) 之獄、古重獄、波平森、屋富祖カマ之獄の五獄と内原之殿の殿のうち、古重獄、屋富祖カマ之獄をのぞいては、すべて米軍基地に接収され消失している。戦前の城間集落全域も米軍基地に摂取されており、集落内にあった神屋や拝井泉、火の神なども消滅してしまった。わずかに基地の外にあった文化財もほとんどは消滅してしまった。 

キャンプ・キンザ―内には多くの遺跡群が存在していた。その一部は発掘調査が行われている。



雨影 (アマカケ) 森

城間交差点にある琉球ダイハツ販売一帯がかつての雨影 (アマカケ) 森で、ここには雨影 (アマカケ) 之獄があった。以前は米軍基地に接収され、その後返還されているが御嶽は消滅してしまっている。


ウフガ-

雨影 (アマカケ) 森にはウフガ―と呼ばれた拝井があった。現在の城間交差点の道路となっている場所だそうだが、消滅している。


ミ-ガ-

雨影 (アマカケ) 森があった琉球ダイハツ販売の裏の駐車場に部分的に森が残っていた。何かありそうなので行ってみると、窪地があり、そこに降りる通路跡が見受けられる。民族地図で確かめると、ミ-ガ-があった場所の様に思える。降りる道が設けられ、現在でもここだけ整地されていないので、多分ミ-ガ-があった場所だろう。


旧城間集落

城間交差点を渡った所、キャンプキンザー基地内がかつての集落があった場所。住民はかつての村が消滅した場所を毎日、目の当たりにしている。なんとも複雑な気持ちだろう。


青年毛、内原毛東空寿 (あがりくうじゅ) 古墓群

ミーガーからは亀瀬 (カーミジ) がある海岸まで、基地沿いに道が走っている。道の東側は少し高台になった森が海岸近くまで続いている。ミーガーからすぐのところには青年毛という広場があり、そこにはワカミヤー祠があったそうだ。今は跡形も無い。またその隣には内原毛 (ウチバルモー) があり、戦前には内原之殿と火の神の祠があったそうだ。


東空寿 (あがりくうじゅ) 古墓群

更に道を進むと東空寿古墓群という古墓が多く発見されている場所になる。

県道浦添西原線 (港川~城間) 道路改築工事の際に発見され緊急発掘調査が行われている。発掘調査の後は、壊されて現在は県道になっている。この道路の東側には城間東空寿古墓群の一部が残っており、城間集落の墓域で現在でも亀甲墓を主とする約100基の古墓が所在しているそうだ。

道から森に入る小径があった。多分墓への道だろう。古墓がある場所は現在でもその子孫たちが当世墓 (トーシーバカ) として使用している事が多くそのお参りの為の道がある。中に入るとやはりそうだった。二つ当世墓 (トーシーバカ) があった。

まだ奥への道が続いている。蜘蛛の巣をかき分け進むと鉄塔になり、更に道を進んだ所が広場になっており、四つの小さな祠が置かれていた。墓なのか、何かを祀っている祠なのかは分からなかった。この奥の森の中にも墓群があるのかもしれないが、樹々が深く、それ以上中に入ることは断念。 


古重嶽 (クジュウ)

亀瀬 (カーミージー) へ向かう途中、海岸に近い橋にある丘陵には琉球国由来記に記載がある古重 (神名: 羽地コイチコイチョウ ガナシ) があったされる。現在は地形も変わっており、個人の住宅になっている。昔、浮着した羽地ノロを葬し、ニライカナイの神として拝んでおり、旅祀願所と考えられている。

古重嶽があった丘陵の先端の崖上から、次に向かう亀瀬 (カーミージー) が見えている。


亀瀬 (カーミージー)

古重嶽の丘陵を降りて県道浦添西原線 (港川~城間) を抜けると海岸に着く。空寿崎 (フウジュザキ) の亀瀬 (カーミージー) へは遊歩道が通っている。

海岸にはきれいなイノー (礁池) が広がっている。南北約3キロ、東西約1.5キロにもなるそうだ。

古重獄の北側に隆起石灰岩の大岩があり、亀の形に似ていることから亀瀬 (カーミージー) とよばれている。方言で「カーミー」は亀、「シー」は岩礁または瀬という意味。地元では牛が横たわった姿に似ているとして「ウーシモウモウ」などともいわれている。大岩の上にはロープで登れるようになっている。亀の頭部分の岩場には小学生が吊をしていた。春休みで遊びに来ている。鉾にも釣り客がいたので、何が釣れるのか聞いてみたが、ここはあまりつれないそうだが、火ともあまり来ないのでのんびりとでき、たまに魚が釣れればそれでいいのだと言っていた。沖縄らしい。

岩の上部の崖の上には祠が立っている。Google Map ではこの祠が亀瀬御嶽(カーミージー)となっている。

河口は里浜ビーチになっている。崖上からだと、海の水はエメラルドブルーで透き通って珊瑚礁が見られる。

牧港方面の橋がかかっているが、この橋は自動車専用道路で自転車は通れない。残念。


カーミージー橋

那覇方面にはカーミージー橋が架けられている。こちらは歩道があり、自転車もOkだ。今日の新型コロナ三回目ワクチン接種場へはこの橋を渡っていく。

このカーミージ―橋は海岸線と平行に設けられている。少し疑問が沸く、陸地に道路を造れば済むのに、わざわざ端にしている。これには複雑な背景がある。当初は海岸を完全に埋立てた敷地に、ボックスカルパート工法という少し海水路を通した「水路方式」の道路建設計画だった。

以前は沖縄本島の各所にイノーの海が見られたが、復帰後の開発により、自然の海岸線はなくなり、現在は浦添のこの海しか残されていないそうだ。自然のままの貴重なイノーの海が3キロに渡って残っている。サンゴ礁に囲まれたイノーに生息する豊富な希少生物の宝庫でもある。埋め立て計画がだされ、それに危機感を持った住民は反対運動を行った。小学生たちはこのイノーに生息する希少生物の研究を行い、その記録を国に提出し、イノー保存のための工法の変更を求めた。国はこれを受け入れ、橋の建設に変更になった。小学生の研究がこの判断に大きく影響している。



浦添市西海岸の石切場跡

カーミージー橋の陸側はキャンプキンザーになっている。海岸線はかつての石切場だった場所。

石切り場跡には行けないのだが、資料にその跡の写真が数点載っていた。


嘉門貝塚

海岸沿いには沖縄貝塚時代後期を主として、グスク時代、近世までに至る複合遺跡の嘉門貝塚がある。海浜砂丘が赤土地代に湾入する部所に形成されていた。貝塚時代後期の範囲は砂丘部に限定されている。それとは逆に前期の遺構は赤土地帯に限られる。また、グスク時代と近世の遺物は土質にあまり関係なく散布する。

キャンプキンザ―の建設工事の際、緊急発掘調査を実施し、貝集積や埋葬人骨等の遺構に伴い、在地の貝塚時代後期土器と本土の弥生時代前期~中期に位置づけられる土器が大量に検出されている。 


城間遺跡、城間古墓群

キャンプキンザ―の西の端、パルコシティの近くに城間遺跡と城間古墓群の発掘調査が行われている。これもキャンプキンザ―の開発工事で、緊急に調査が行われたもの。

城間遺跡は石灰岩丘陵上の台地に形成され、概ね内陸側に高く海側へ低い緩やかな傾斜面を呈する地形である。文化層は時代により大きく 2 つに区分できる。上方は近世の石列遺構を主体とし、下方は沖縄貝塚時代後期の土器を包含する。 

城間遺跡の海岸側には多くの古墓の見つかっている。城間古墓群と呼ばれている。


パルコシティ

カーミージー橋を渡り切った所にパルコシティの大型ショッピングセンターがある。ここで休憩をした。店内では隣にあるキャンプキンザ―に駐留している米軍兵士家族を多く見かけた。独特の雰囲気がある。


那覇軍港移設案

このパルコシティの前の海は埋め立てて、那覇港にある米軍那覇軍港の移設が決まっている。

米軍那覇軍港の返還は1974年に日米両政府で合意されていたが、その条件が県内移設であったことで、移設先が決まらず、長期間実現していない。那覇市と沖縄県はこの浦添市の海岸を提案していたが、浦添市が移設事態に反対、そして合意するも、新たな軍港案で対立、ようやく今日4月30日に日本政府が新軍港案を沖縄県に提示した (下の図)。しかし、米国が対中国の警戒感を強めている中、本当にこの移転が実現するのかは不透明だ。ここに軍港が造られた時でも、キャンプキンザーを返還するのかも不安視されている。また、キャンプキンザ―も含めての移設案では軍港だけでなく民港、リゾート地や商業地区、住宅地も含まれているが、これが実現できるかも課題。この計画案を浦添市は募集し、現在審査中の段階。



3月31日はこの後、雨の中を、那覇の泊港の那覇クルーズセンターに新型コロナの三回目のワクチン接種にむかった。


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • 城間字誌 第1巻 城間の風景 (2000 城間自治会)
  • 城間字誌 第2巻 城間の歴史 (2003 城間自治会)
  • 遺跡にみる昔ぐすくま [むかし城間シリーズ 1] (1997 浦添市字城間自治会)
  • 浦添市西海岸の石切場跡 城間-仲西地区 (2010 浦添市教育委員会)
  • 嘉門貝塚A (1991 浦添市教育委員会)
  • 嘉門貝塚B (1993 浦添市教育委員会)
  • 城間遺跡 (1992 浦添市教育委員会)
  • 城間東空寿古墓群 (2017 浦添市教育委員会)
  • 城間古墓群(1992 浦添市教育委員会)