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東京 (18/04/22) 江戸城 (35) 北の丸

2022.04.18 22:20

北の丸


昨日は長距離ライドだったので、昨夜も熟睡。朝起きると、娘達はすでに会社に出勤していた。遅めの朝食を取り、出かけようとした途端に雨が降り始め、本降りになった。雨が弱まるのを待って、2時出発となった。今日は先日訪れた江戸城北の丸の残りと三の丸を見たかったのだが、遅い出発となった事と夕方から雨が強く降るとの天気予報を見て、北の丸の残りだけを巡り、今週いっぱい宿泊するホテルに向かうことにする。途中で雨が強くならなければいいのだが…


北の丸 (北の丸公園)

江戸城北の丸は、明治維新以降は近衛師団の兵営地等として利用され、多くの建物が建てられていたが、戦後、森林公園として改修が進められた。旧皇室園地に由来する国民公園皇居外苑の一部に編入され、1969年 (昭和44年) に昭和天皇の還暦を記念して開園し、一般に公開された。東御苑をはさんで、皇居外苑地区と一体的な公園利用が可能となっている。園内の一部は、武道館、科学技術館、国立近代美術館等の施設に利用されている。


北の丸への出入り口は北からは田安門、東側からは清水門竹橋門、南の本丸からは北詰橋門の四ケ所となる。江戸時代末期の地図には徳川御三卿の田安家と清水家の広大な敷地の上屋敷が置かれていた。この御三卿は八代将軍吉宗の時代に、将軍の跡継ぎを輩出することを目的に創設された。吉宗の次男宗武を当主として田安徳川家、その四男宗尹を当主として一橋徳川家がはじまり、その後、九代将軍家重の次男重好を当主として清水徳川家が創設されている。

清水家、田安家の上屋敷が置かれたのは江戸時代中期で、それ以前の縄張り図があった。三代将軍家光時代には、三男長松や春日局、千姫(天樹院)、弟の駿河大納言忠長の屋敷が見受けられる。1657年の明暦の大火で江戸の大半を焼失した後、北の丸は火事対策として割り替えが行われ明地 (空き地) が増えている。

ただ、この御三卿は、単に将軍家の親族という位置づけで、独立した藩とはみなされず、支配拠点もなく、それぞれ賄領10万石と江戸城における屋敷を与えられただけだった。家臣は、御付人、御付切、御抱人から構成されていたが、御付人と御付切は幕府の役人で、御付人においては幕府の職制に組み込まれていることが多く、職制でも独立した存在ではなかった。徳川吉宗の意向は将軍家の後継ぎ候補の家だけでなく、将軍家の次男以下を仮に置くだけの家の創出という事でもあった。そのため、当主が不在の明屋形となることもしばしばあった。ただ、御三卿は血筋が絶えても改易にはならないという特徴があった。インターネット上にこの御三卿や御三家と将軍家の関係を表すわかりやすい図が掲載されていた。この図を見ると御三卿が将軍家の嫡男以外の居所を確保する目的であったことがよくわかる。


清水徳川家上屋敷跡

江戸時代には田安門を入った東側には清水徳川家の屋敷があった。清水徳川家は、1758年 (宝暦8年) に九代将軍家重の次男重好が、江戸城清水門内に屋敷を拝領したことにはじまる。清水徳川家は当主不在の明屋形という状態が続いた点に特徴があり、将軍家の庶子も、全員がすぐに養子となって大名家を相続できるわけではないため、御三卿の家は養子縁組待ちの控えの場所としての役割を果たすようになっていた。

大河ドラマの「青天を衝け」で登場する徳川昭武は清水徳川家の最後に当主だった。徳川昭武は将軍徳川慶喜の弟で水戸徳川家の出身。パリ万国博覧会へはの使節の派遣に当たって昭武が慶喜の名代となり、その便宜として1866年 (慶応2年) に清水家を継がせた。昭武は当時実子のなかった慶喜から、自身の後継者候補と考えていたことも御三卿の清水家を継がせた理由だろう。昭武は万博閉幕後もフランスに滞在して勉学にも励んだが、その間に大政奉還と明治政府の樹立、さらに長兄の水戸藩主徳川慶篤の死が続いた。昭武は明治元年に帰国すると、水戸家の家督を継ぎ、そのため清水家はまたも当主不在の明屋形となった。そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩、一橋藩を立藩したのと異なり、清水藩は立藩していない。

屋敷跡地は遊歩道が何本も走っており、綺麗に整備されていた。


日本武道館

清水徳川家の屋敷跡には1964年東京オリンピックの柔道競技会場として建設された日本武道館が建って入る。法隆寺夢殿をモデルにした八角形にデザインされ、大屋根の稜線は富士山をイメージしているそうだ。日本武道館のあたりは、元々太田道灌が江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社 (旧 田安明神) が遷座したところで、のち、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれていた。その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、江戸時代中期以降は徳川氏の御三卿であった田安徳川家が屋敷を構えたが、明治維新後取り壊され近衛師団の兵営地となった。2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け外観などが変わらないように配慮して増築改修を行っている。


吉田茂像

武道館の南側の清水徳川家屋敷跡地は北の丸公園の芝生地になっている。屋敷跡は清水門まであった。芝生地の一角に桜の木に囲まれて吉田茂像が立っていた。まだ桜の花が咲いている。吉田茂は外務次官や駐英大使など要職を歴任し、戦後は総理大臣として日本の復興と世界外交復帰に尽力した。政治手腕は強引で色々と批判もあったが、歴史的には有能な政治家だったと思う。このような政治家がいなくなったのは今の政界の課題だろう。銅像は、1981年 (昭和56年) に建立されたもの。


雁木坂

清水徳川家屋敷からは下る道があり、清水門に通じている、坂道には階段が残っている。

この坂は、江戸城跡内で唯一、江戸時代のままの姿で残されているものだそうだ。敵に侵入されても容易に階段を駆け上がれぬよう、わざと一段一段を高くしているので、一段一歩のリズムでは難しい。清水門には一年前の昨年の4月21日に訪れている。


旧近衛師団司令部(東京国立近代美術館・工芸館)

江戸幕府が倒れ、1871年 (明治4年) に、薩摩、長州、土佐の3藩より兵を徴収し、御親衛として皇居の警護にあたったのが近衛兵で、この北の丸の清水徳川家と田安徳川家屋敷跡も含めてに近衛歩兵営が置かれていた。近衛兵は、第一から第五連隊まで2万人の兵力、軍の中でも特に格上とされていた。創設された御親兵を翌年近衛兵と改称、同21年に近衛師団となった。北の丸の竹橋に近い国立近代美術館のあたりは、近衛砲兵の兵舎となった。皇居と皇族の護衛、帝都の防衛が主な任務で、毎日二百名の近衛兵が乾門から皇居へ入り、24時間交代で二重橋などの歩哨についていた。本師団には、毎年行われる兵役検査で全国各地の一般部隊に入営した若者のうち、眉目秀麗・姿勢良好な者が選抜の上配属された。このことから、本師団に配属されることは「一族・郷土の誇り」とされ、本師団で兵役を務めた若者は、満期除隊して予備役になった後も縁談が多く舞い込んだり、地元の名士から一席設けられたりと、地域のコミュニティでもてはやされたという。また、少尉以上の士官についても、昭和の初期までは皇族、華族及び士族階級の出身者しか配属されず、帝国陸軍における「エリート部隊」とされていた。

この様に帝国陸軍の最精鋭かつ最古参の部隊として知られていたが、その一方で「竹橋事件」や「二・二六事件」、「宮城事件」といった反乱事件の中心ともなった。


  • 竹橋事件: 1878年 (明治11年) 8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が西南戦争における財政の削減、行賞についての不平を背景に起こした武装反乱事件。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたため。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた。


  • 二・二六事件: 1936年2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターの二・二六事件を断行。このとき高橋是清、斎藤実など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になった。当時、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気 (昭和恐慌) に見舞われ、企業は次々と倒産し、町は失業者であふれていた。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく (農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出ていた。こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発。また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況で、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部に期待するようになった。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指し、行動に移したという背景がある。
  • 宮城事件: 1945年8月14日の深夜から15日にかけて、日本の無条件降伏を勧告する連合国のポツダム宣言受諾に反対する陸軍省の一部若手将校らが起こしたクーデター未遂事件。日本の降伏を阻止しようと、宮城 (皇居) の警備を担う近衛師団長を殺害し宮城内に乱入、封鎖。天皇が終戦の詔書を朗読して録音した玉音盤 (レコード原盤) を探し回ったが見つからず、軍首脳らの説得に失敗し15日未明、鎮圧された。阿南惟幾陸相が自決し、降伏表明は予定通り行われた。この事件は映画『日本のいちばん長い日』で描かれている。

近衛師団司令部は、1910年 (明治43年) に設計建築された。ゴシック風レンガ造りの司令部は、昭和20年まで置かれていた。

近衛師団司令部庁舎は、1977年から2020年2月28日まで東京国立近代美術館工芸館となっていた。首都高が以前はあった前の庭を走っている。ルートを少し変えれば庭が残ったのに残念。


北白川宮能久親王の馬上銅像

東京国立近代美術館の工芸館の入口には、移設された北白川宮能久親王の馬上銅像がある。

もともとは、1903年 (明治36年) に陸軍砲兵工廠で鋳造され、近衛第一、第二正門前に建立されていた。北白川宮能久親王は維新後に北白川家を継承して、陸軍中将となり近衛師団長として出征した台湾で、1895年 (明治28年) に、マラリアで薨去。能久親王は、幼くして江戸の地で僧侶として過ごし、一時は朝敵の盟主となって奥州を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死を遂げたことで日本武尊に例えられたことから銅像が建てられた。

沖縄の佐敷に東郷平八郎による揮毫の能久親王御寄港之碑がひっそりと建っていたのを思い出した。日清戦争が終結で、台湾が清から日本へ割譲され、激しい抵抗運動平定の為に近衛師団を率いていた陸軍中将近衛師団長の能久親王がここで初代総督 樺山資紀と合流し、台湾へ出港した。 


近衛歩兵第一連隊跡記念碑

北の丸は1874年 (明治7年) に、田安、清水両屋敷が壊され、近衛第一、二連隊の兵舎敷地となり、竹橋陣営と呼ばれた。

武道館前の休憩所の側に近衛歩兵第一連隊跡記念碑が立っている。それによると、近衛歩兵第一聯隊は、それ以来、1945年 (昭和20年) 大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯している。西南、日清、日露、大東亜戦争の各戦役及には、軍に従って出征している。近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。


近衛歩兵第二連隊跡記念碑

近衛歩兵第一連隊跡記念碑から100メートルほど南には近衛歩兵第二連隊跡記念碑が置かれている。

近衛歩兵第二連隊は、西南戦争で田原坂の戦い等に参加するとともに、日清戦争では台湾平定に当たり、日露戦争では、奉天会戦等に参加している。戦後、1946年 (昭和21年) の東京戦災復興都市計画において、旧竹橋陣営は皇居周辺の緑地として整備されることになり、1957年 (昭和32年) に都市計画決定、1963年 (昭和38年)、森林公園として整備が開始となった。旧竹橋陣営の建物は、戦後すぐの頃から、学徒援護会の運営する学生寮である東京学生会館や警視庁 警察学校などに利用されていたが、整備に伴い撤去され、1969年 (昭和44年) に北の丸公園となった。


田安徳川家上屋敷跡

江戸時代北の丸には清水徳川家屋敷の西側には田安徳川家屋敷があった。田安徳川家の初代当主となった八代将軍吉宗の次男宗武は、 1731年 (享保16年) に江戸城田安門内に屋敷を賜わっている。田安徳川家は、学問の家系といわれるほど、多くの文人を輩出しています。田安家2代当主 徳川治察の死去後、田安家も明屋形の状態となり、14年後の1787年 (天明7年) に一橋家の徳川治済の五男斉匡 (徳川家斉の弟) が相続している。

屋敷は武道館前の駐車場から南側にあった。

屋敷跡には江戸時代からあった植溜の池が屋敷跡地まで拡張され、西側には滝がありそこからの水が小川を通って池に注ぎ込んでいる。細い遊歩道が何本もあり、綺麗に手入れされており、散歩には良い場所だ。

千鳥ヶ淵に面した高台 (千鳥ヶ淵南堤) 沿いにも遊歩道があり、ここからは千鳥ヶ淵が眼下に伸びている。4月初めに来れば桜が綺麗だっただろう。


怡和園

千鳥ヶ淵南堤の遊歩道沿いは怡和園の碑が立っている。明治維新の日本陸軍創設に伴い、田安家の跡に近衛歩兵第一連隊、清水家の跡に同第二連隊の兵営が建てられていた。この場所は近衛歩兵第一連隊の地域で、明治中頃までは土を盛り上げただけの土堤であったものを、明治41年に手を入れて、広場や四阿を設け、花卉を植えて小庭園を造り、喜び和らぐの意味の怡和園と命名し、この石碑を建てた。爾来将兵の散策や憩いの庭として、また、体操や訓練の場として長く親しまれていたそうだ。 戦後北の丸公園造成の際、この庭園は様相を変え、石碑は地中に埋められたが、その後僅かに出ていた石碑の頭部を発見し発掘して再建したもの。


B29迎撃用の高射砲台座 (御訪問)

この千鳥ヶ淵南堤の遊歩道にはB29迎撃用の高射砲台座が残っているそうだ。 (探したが見つからず。写真はインターネット上に出ていたもの) 


植溜御用地跡

北白川宮能久親王の馬上銅像の北側、田安徳川家と清水徳川家の屋敷跡南側に池があった。江戸時代の地図を見ると植溜と書かれ、この池から現在の科学技術館までは植溜御用地となっている。

植溜とは樹木などの裁培場で、その緑地が江戸で頻繁した大火の際の避難場所に使われていた。ここの他に両国橋の東西に設けられた両国広小路の西側にも、植溜がつくられていたそうだ。またこの植溜御用地の南側は馬場跡だった。


科学技術館

科学技術館は、現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く国民に対して普及・啓発する目的で公益財団法人日本科学技術振興財団が、多くの企業からの寄付金で1964年(昭和39年)に開館している。


東京国立近代美術館

九段交差点に近い場所には日本で最初の国立美術館である東京国立近代美術館がある。この東京国立近代美術館は、1952年 (昭和27年) に京橋に開館したが、その後、所蔵作品の増加と企画展の拡充等により、スペースが足らなくなり、1969年 (昭和44年) 、現在地に新館が開館している。


国立公文書館

東京国立近代美術館の隣には国立公文書館があり、歴史資料として重要な公文書等を保存管理している。


これで北の丸の散策は終了。江戸時代の名残りは北の丸の三つの入り口のうち田安門と清水門だけだった。


この後、雨が本降りになる前に今週滞在するホテルに向かう。ホテルは先週に利用した地域にある。今回のホテルは江戸時代の吉原遊郭があった場所だった。少し歩くと風俗店が立ち並んでいる。ただ、活気は感じられない。世情を反映しているのだろう。