【小石川①026】小石川指ヶ谷町
町番号:小石川①026
町名:小石川指ヶ谷町
読み方:こいしかわさすがやちょう Koishikawa-Sasugayachō
区分:町丁
起立:1634(寛永11)年
廃止:1966(昭和41)年12月31日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「小石川」
現町名:文京区白山一・二、四・五丁目
概要:江戸期には一・二丁目があった。小石川台・本郷台・白山台地の間に位置し、古くから「指ヶ谷」或いは「さすがい」(砂子)と呼ばれていた。指ヶ谷の由来は、三代将軍家光がこの地を「あの谷」と指差したことによるといわれている(紫の一本)。当町は小石川村御料地で1623(元和9)年に伝通院領となったところ。1634(寛永11)年、百姓町屋が許され、1745(延享2)年より町奉行支配となる。町内には「芋洗」、「築地」、「小十人町」の俗称地名があった。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年5月、小石川指ヶ谷南片町、小石川円乗寺門前、小石川蓮華寺門前、小石川浄雲寺門前、小石川正福院門前、千川屋敷、小石川白山前町の一部、白山御殿町の一部を合併。1872(明治5)年8月、仲町広小路、白山御殿大通、小十人町を合併。当時の戸数232・人口955(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。起伏に富んだ町で、当町の松平織部正屋敷跡に移転した東京盲唖学校の脇を北に下る坂を蓮華寺坂、南に下る坂を御殿坂といった。町南端の伊賀坂は伊賀者組屋敷があったので名付けられた。
1894(明治27)~1895(明治28)年頃、町内の一画に「八軒矢場」と呼ばれた銘酒屋・遊戯店が10数軒並んでいた。1912(明治45)年、芸妓屋・待合茶屋の指定地として許可され、江戸時代以来の私娼街は一掃され、白山三業街として発展する基を作った。同年には7~8軒であった芸妓屋も1918(大正7)年には50軒を超え、当時の料理店には柳川亭、万金楼、角金楼等があった。1909(明治42)年10月には、国定教科書を作る東京書籍が設立された。町内には日蓮宗本松山蓮華寺、天台宗南緑山円乗寺、浄土宗臨川山厳浄院等8ヶ寺があった。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
住居表示の実施により、1964(昭和39)年8月1日に白山一・二丁目に、残余は1967(昭和42)年1月1日に白山四・五丁目に編入となり消滅。
「さすがや」が正当な読みだが「さしがや」ともいわれ、区立小学校と区立保育園に「さすがやしょうがっこう」、「さしがやほいくえん」が併存している。
撮影場所:小石川指ヶ谷町