【小石川①028】白山御殿町
町番号:小石川①028
町名:白山御殿町
読み方:はくさんごてんまち Hakusan-Gotemmachi
区分:町丁
起立:1891(明治24)年3月
廃止:1966(昭和41)年12月31日
冠称:なし
現町名:文京区白山三・四丁目、小石川五丁目
概要:1891(明治24)年3月、江戸期の小石川薬園に小石川村字御殿下鶴場、小石川久堅町、小石川戸崎町の各一部を合併し起立。東京市小石川区所属。町名は1652(承応元)年に置かれた上野館林藩主(後の5代将軍綱吉)の下屋敷が嘗て白山神社の鎮座地であったので「白山神社」称したことによる。綱吉の下屋敷となる以前は白山神社、氷川神社、女体神社の3社があったといわれる。綱吉が将軍職に就いた後、元禄年間(1688~1704年)、幕府最初の薬園である麻布薬園が御殿跡地の北隅に移転(改撰江戸志)。1721(享保6)年、整備拡張され、白山御殿跡地全てが下賜され、4万4,000坪に及ぶ小石川薬園となった。
同薬園は西園を芥川元風、東園を岡田利左衛門が管理し、園内には御薬種所、利左衛門屋敷等があり、薬草の栽培、採薬の他、製品を幕府に献上した。この薬園で青木昆陽は甘藷の品種改良に努めた。明治維新により、東京府の管轄となり、後に「小石川植物園」と改称し、1877(明治10)年には東京帝国大学の付属植物園となった。また、1722(享保7)年、麹町の町医師小川笙船の意見書によって、貧民救済の養生所を園内に開設した。薬だけを貰いに来る人の列が長く続いたので、中央の坂を「病人坂」ともいった。小石川養生所は明治以後、鎮台府管轄の施療病院となるがすぐに廃止となる。
町南は小石川戸崎町、小石川久堅町に隣接する低地帯の印刷・製本の街で、明治末期から大正初期にかけての人口の増加率は大きかった。徳永直作『太陽のない街』の舞台として有名で、戦後は映画化された。今では信じられないが、当時は日射しの差さない谷地で、水田や湿地を埋め立てて建てられた不良住宅地であり、作中ではそんな貧民窟の様子が描かれていた。
1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
住居表示の実施により、1966(昭和41)年4月1日に小石川五丁目に、残余は1967(昭和42)年1月1日に白山三・四丁目に編入となり消滅。
※当町起立前、小石川植物園は小石川久堅町町域となっている地図多し。
撮影場所:白山御殿町