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江戸町巡り

【小石川①055】小日向町

2017.12.09 04:25

町番号:小石川①055

町名:小日向町

読み方:こびなたちょう Kobinatachō

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:存続 「小日向」として(但し、現在の「小日向」は別の所)

冠称:なし

現町名:文京区関口一丁目

概要:江戸初期には小日向村のうちで、後に小日向町在方分と称していた。江戸期には田地。1872(明治5)年に成立した新しい町であり、この町を中心に小日向各町が拡がっていったわけではない。

1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。1901(明治34)年、江戸川製紙合資会社が創設されたが、のち江戸川製紙会社に買収された。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。

1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、関口一丁目に編入となるが、小日向第六天町の一部、小日向水道端二丁目の一部、小日向茗荷谷町の一部、小日向水道町の一部が合併し一丁目、小日向台町一~三丁目の一部、小日向水道町の一部、桜木町の一部が合併し二丁目、小日向茗荷谷町の一部、小日向台町一~三丁目の一部、音羽町五丁目の一部が三丁目、小石川竹早町の一部、小石川同心町の一部、小日向第六天町の一部、小日向茗荷谷町の一部、小日向清水谷町の全部、小日向三軒町の全部が四丁目と再編され、「小日向」が継承される。


なお、そもそもの「小日向」について以下に詳述する。

『江戸砂子』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で、家が絶えたあと、「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『十方庵遊歴雑記』は、大塚大慈寺(現在廃寺)が昔、日向国にあり、徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることから、この意味の「古日向」の可能性もあるとする。いずれにせよ「ひゅうが」と「ひなた」で読みが一致しないので、『御府内備考』以下後の考証家からは否定されている。『大日本地名辞書』は、神奈川県日向山、青梅市日向和田・日陰和田と同様に向陽の意とした。1966(昭和41)年の住居表示実施時、文京区が読みから濁点を外し「こひなた」としたため、後に住民と軋轢を生んだ。

中世では、戦国期に見える地名。『備考』では小日向郷と記し、また金曽木郷に属したともいう。1420(応永27)年5月7日の旦那願文案に「江戸の惣領の流」つまり江戸氏の一族として「こひなたとの」が見られ、この地に居住した人物であったと思われる。その後、天文年間(1532~1555年)と推定される『武蔵国旦那書立写』には「こひなたたんしやう殿」が見える(米良文書/熊野那智神社文書)。当時は神田川(平川)北岸沿いに川越街道が通っていたと考えられ、小日向第六天社の地内に1360(延文5)年、記銘の板碑があった。また金杉の金剛寺(現在は中野区上高田二丁目に移転)には源実朝の伝説を残しており、江戸周辺における交通の要衝であったことを偲ばせている。戦国期には金剛寺に太田道灌の木像と位牌があったが、幕末に焼失したという。小田原北条氏の臣江戸衆の興津加賀守の買得地として「拾弐貫九百四拾六文 元太田源十郎知行 小日向分」、また太田氏の庶流で江戸衆の恒岡弾正忠の所領16貫570文、さらに『太田大膳知行之内』に入るとして、「廿壱貫四百四拾文 小日向屋敷分」の記載があり、太田氏との関係が深かったことが判る。

「小日向村」は、江戸期の村名。豊島郡峡田領に属す。幕府領。『田園簿』の石高は25石余で田22石余、畑3石余。野村彦太夫と町年寄樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門、喜多村彦右衛門の支配であった。1672(寛文12)年、代官の一手支配となり検地を施行。明暦年間(1655~1658年)より町場化し、1713(正徳3)年には11ヶ町が町奉行支配下となった。『元禄郷帳』、『天保郷帳』、『旧高旧領』には「小日向町」。『天保郷帳』の石高は81石余で以後幕末まで大きな変化はない。用水は神田上水を引き、久世長門守、肥部与左衛門等の抱屋敷があった。

撮影場所:小日向町

撮影地:文京区関口一丁目9番(地蔵通り商店街 やきとり皆の家)

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