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東京 (19/04/22) 江戸城 (36) 三の丸

2022.04.20 02:45

三の丸


三の丸の外側は4月13日に西の丸下、4月14日に西の丸を訪問した際に歩いたのだが、今日は三の丸の内側を巡る。皇居周辺には駐輪場が殆どなく、三の丸、二の丸内は自転車は入れず、歩きになるので、地下鉄で大手町まで向かい、徒歩にて巡る。中に入るには、平川門、大手門で身分証明書を見せて、荷物検査を受け、入場札を受け取るシステムだったが、コロナ禍で非接触のため、簡単な荷物検査だけで入場できた。


三の丸

現在の皇居東御苑の東側が江戸城の三の丸があった場所で、日比谷入江の西側の低地にあたり、徳川家康の入府後に埋立てられている。寛永12年以前は、酒井雅楽頭忠世の屋敷だったが、寛永12年に新たな二の丸の拡張に伴い屋敷は移転し、新たな三の丸の北側に殿舎 (三の丸御殿) が設けられ、その南が空閑地で、更に南側に喰違門と石垣があった。明治時代以降は皇居となっている。

三の丸へは、桔梗門、大手門、平川門の三ヶ所から入ることになる。江戸時代は桔梗門と大手門の二つの門が大名の登城門だった。


先日は西の丸の皇居の見学で桔梗門から入ったので、今日は北側にある平川門から入り、皇居東御苑となっている三の丸、二の丸を見学し大手門までのルートを散策する。江戸時代三の丸には何があったのかは色々調べたが、情報はかなり少なかった。江戸城の地図にも三の丸についてはあまり詳しくは出ていない。


平川橋

大手町から竹橋を通り江戸城三の丸に向かうと、大手濠に平川橋が架かっている。平川橋は江戸城で今での当時の姿が残っている二つの橋の一つで、木橋になっている。欄干には慶長期・寛永期の擬宝珠が残っている。もともとは二重橋に備え付けられていた擬宝珠で、明治20年に橋が架け替えられた際に、平川橋に転用された。

江戸時代末期の江戸城地図を見ると、大手濠もそうなのだが、三の丸を囲む濠の石垣の上には三の丸の両端の桜田巽櫓と平川門から竹橋門に渡る帯曲輪以外多聞櫓や隅櫓が無かった様だ。


江戸城築城550年記念碑

平川橋の近くに石垣の石を重ねたモニュメントがある。平成19年に設置された江戸城築城550年記念顕彰碑だそうだ。元々は太田道灌没後450年の際に追悼の碑として造られたのだが、これを太田道灌が江戸城を築いてから550年という事で顕彰の碑となった。


平川門

平川橋を渡ると平川門となる。この平川門周辺は、上平川村、下平川村という村があったのでこの名前が付いている。この門の歴史は古く、太田道灌の時代から門が築かれていたそうだ。江戸時代には、1620年 (元和6年) に仙台藩主伊達政宗ほか六名の大名によってつくられ、更に、三代将軍の徳川家光の時代、1635年 (寛永12年) に、高麗門 (第一門)、渡櫓門 (第二門) で構成された枡形門となり、三の丸の正門だった。本丸大奥に通じる奥女中や旗本、商人らの通用門だったため別名「お局門」と呼ばれ、また御三卿 (田安、一橋、清水) の登城口でもあった。明暦3年 (1657年) の大火で焼失したが、二年後の万治2年 (1659年) に再建され、高麗門はそのときのものが現存している。櫓門と塀は太平洋戦争の空襲で焼失し、昭和41年 (1966年) に復元されたもの。

警備の警官が簡単な荷物検査をして高麗門 (第一門) から入る。

中は枡形になっており、斜交いに渡櫓門がある。

平川門にはもう一つ門がある。帯曲輪への門で帯曲輪門と呼ばれていた。この門は、場内の死者や罪人などを帯曲輪に搬出する出口とされていたことから「不浄門」ともいわれていた。


平川濠、帯曲輪

平川門を三の丸に入ると、内濠があり、平川濠と呼ばれている。この平川門枡形内の門と竹橋門との間の濠中東側には160mほどの細長い土橋廊下のような帯曲輪 (写真の左側の石垣部分) があり竹橋門まで通じていた。

帯曲輪の東側の内濠は平川橋が架かる大手門に向けての大手濠となり、平川濠と共に江戸城本丸の北側、三の丸の西側を防備する役割を担っていた。帯曲輪に兵を配置し、堀の向こうの敵を迎撃できるようになっており、有事の際に相互の城門の番兵が、それぞれの応援に駆け着けることができるようになっている。まさに江戸城北方の守りの要となる場所だった。さらに隣接して、一橋門と雉子橋門を置き、わずかな距離の間に三重 (平川濠、内濠、外濠) に濠を廻らせ、防御を強固にしている。下の写真は大手濠から見た帯曲輪跡。

平川門を入って内側から見た帯曲輪。


天神濠

江戸城の三の丸と二の丸を隔てる濠。平川門から三の丸に入った南側にある。二の丸の下梅林門への橋があった。大正時代に堀を埋め、現在は土橋になっているが、江戸城築城当初は木の跳ね橋で、有事の際には橋を落として防衛力を強化することができた。天神濠という名は、太田道灌の菅原道真を尊敬していた事に由来しているそうだ。天神濠は二の丸の東側に位置した南半分は埋め立てられてる。本来は三の丸と二の丸を隔てる濠のため大手三の門まで、江戸城の玄関部分である大手門まで伸びていた。


三の丸御殿、御鷹御殿 (御鳥屋)

平河門を入った所には大番所の警備所がありその先には三の丸御殿が存在していたという。1657年 (明暦3年) の明暦の大火で、本丸、二の丸とともに焼失している。どうも、その後は再建されなかったようだ。(再建されたという資料がなかった) 明暦の大火以前の時代、徳川家光 (1604-1651) の功績を描いた江戸図屏風では御鷹御殿と三の丸御殿らしきものが描かれている。御鷹御殿が何なのかを説明する資料は見つからなかったのだが、その後、鳥御殿となっているので、鷹狩用の鷹を飼育してした場所なのだろう。

ある資料では三の丸内には、御鷹御殿の場所が「御鳥屋」となっているが、それ以外の建物は描かれていない。多分、明暦の大火の後は、御鳥屋だけが造られていたのかもしれない。

現在は宮内庁覆馬場、厩舎などの建物が建っているのだが、平川門からも大手門側からも三の丸は立ち入り禁止になっている。


天神橋

明治時代の地図を見ると天神濠に三の丸から二の丸へ新たに天神橋が架けられている。後に天神壕のこの場所から南は埋め立てられたので、現在は橋は残っていない。ここも立ち入り禁止だった。


三の丸 喰違門

三の丸の大手門に行くには、天神壕を南に進むのだが、途中には喰違門があり、そこを通らなくてはならなかった。ここも立ち入り禁止地域になっている。大手門を入ったところから、現在は埋められてしまった天神濠に沿って、平川門へ至る道がある。この道の向こうがかつての三の丸 喰違門があった場所。


大手門

平河門と桔梗門の間に、江戸城の正門となる大手門がある。別名を追手門という。1606年 (慶長11年) に江戸城の縄張りされ、翌年藤堂高虎設計により完成した江戸城の玄関にあたる。1620年 (元和6年) には江戸城修復が行われ、伊達正宗、蒲生忠郷、相馬利胤らにより現在のような桝形形式の城門となっている。1629年 (寛永6年) にも、改修工事が行われており、酒井忠世が分担し、左右の石垣は伊達政宗が築造している。

当時は、城内に入る橋の前に「下馬所」があり (大手門前は大下馬) 大名以外の従者たちは馬や駕籠から降りて歩いて登城していた。

多くの大名が登城する毎月1日、15日、28日には臨時の下馬所として和田倉門前も使用されていた。この橋は江戸時には木橋が架けられていたが、安全な維持管理と水位調節のため土橋となっている。

大手門は先ほど訪れた平川門と同様に、高麗門 (一ノ門)、桝形広場、渡櫓門 (二ノ門、関東大震災後に再建) の形態のまま残っている。旧江戸城の大手門だった高麗門は、徳川家康のはからいで増上寺表門として移設されている。現在の門は、1967年 (昭和42年) に復元されたもの。

枡形内には大手門渡櫓の屋根に取り付けられていた青銅製の鯱が置かれている。この鯱は1657年 (明暦3年) の大火で焼失した後に再建されたもの。

枡形を囲んでいる塀の下の方に矢狭間がある。戦国時代の城の矢狭間に比べてかなり小さくなっている。弓矢ようではなく鉄砲用だ。

現在の渡櫓門は皇居東御苑の開園に合わせて、1968年(昭和43年)に木造復元により再建されたもの。


三の丸尚蔵館

大手門を抜けると、三の丸尚蔵館がある。この場所は江戸時代は天神濠だった。三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類や皇室の遺贈品,遺品,寄贈品などが展示され、無料で見学ができるのだが、現在は隣に建て替え工事中で、休館となっていた。残念。この三の丸尚蔵館は1989年 (昭和64年)、昭和天皇が崩御し、相続税の納税のため、遺産の範囲を確定作業を始めるが、国有財産なのか天皇私物なのかが曖昧になっていた。三種の神器や、歴代天皇の肖像、宸筆、皇室儀式の屏風や刀剣類などは、御物として天皇の私物とされ、その一部は相続税の課税対象となった。残りの絵画、書、工芸品や美術品類など約6,000点は遺族から国に寄贈され、国有財産となり、一般に公開する目的をもって1993年 (平成5年) にこの三の丸尚蔵館が開館したという経緯がある。


桔梗濠、桔梗門 (内桜田門)

もう一つの登城門が桔梗門になる。江戸城の内濠の桔梗濠と蛤濠に面しており、内桜田門とも呼ばれている。

この門へは4月14日に皇居見学コースで訪れた。写真はその際に撮ったもの。桔梗門へは土橋の桔梗門橋 (内桜田門橋) を渡って入る。

桔梗門も他の門と同様に入り口は高麗門となっている。

高麗門を入ると枡形で、右に折れて櫓門から三の丸に入る。この桔梗門は1614年 (慶長19年) に造られ、江戸城を築いた太田道灌の時代には、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から、この名が付けられたという。江戸時代には大名が三の丸への登城門と定められていた。もう一つの登城門は大手門だった。

桔梗門に連なる、 石垣には刻印のある石がある。徳川将軍は、全国の大名を動員して、 江戸城の整備・修築を行い、どの大名がその箇所の工事を分担したかを示している。ただ、すべての費用は分担した大名が負担していた。これは徳川家の政策で、各大名の経済状況をコントロールする意図があり、各大名にとっては大きな負担となった。


桜田二重櫓 巽櫓

桔梗濠の向かいにそびえる二重櫓が桜田巽櫓で江戸城本丸の東南(辰巳=巽)の方向にあることが名の由来している。富士見櫓、伏見櫓と並んで江戸城に残る江戸時代の櫓のひとつで、三の丸に位置している。

三の丸には五つの櫓が建っていたのだが、この桜田二重櫓 巽櫓以外は残っていない。明治時代の地図 (下図中) や江戸末期の地図 (下図左) でも、見当たらない。寛永年間 (1624年から1644年までの期間 徳川家光の時代) の地図には出ているので、1657年 (明暦3年) の明暦の大火で三の丸御殿が焼失した時にこの櫓も焼けてしまったのかもしれない。

徳川家光時代に描かれたとされる江戸城屏風では4つの隅櫓が描かれている。平川門に近い櫓は見当たらない。


桔梗門と大手門の間の桔梗堀に面した三の丸の石垣の上には名不詳の隅櫓が一つあり、その両側には多聞櫓が伸びていた。

大手門と平川門との間の大手濠に面した三の丸石垣上には三箇所の隅櫓とそれを結ぶ多聞櫓が存在していた。名前は残っていない。


蛤濠

桔梗門と坂下門の間には蛤濠がある。この蛤濠の内側が、江戸城の二の丸と本丸になる。本丸防衛のため、やや水深の深い水濠になっているそうだ。現在は残っていないが、二の丸の石垣上には、隅櫓として蓮池巽三重櫓、箪笥多門櫓、蓮池二重櫓が存在していた。この蛤濠は、江戸時代には、北側の天神濠まで繋がっていた。大正時代に蛤濠は一部を残して埋め立てられ、三の丸と二の丸が陸続きとなっている。


旧枢密院庁舎 (4月14日訪問)

ここにも4月14日の皇居内一般見学の際に訪れた。現在は埋められてしまった蛤濠の北側に旧枢密院庁舎がある。この枢密院は発足当初には会議は赤坂仮御所別殿 (御会食所) で開かれていたが、その後、明治宮殿完成とともに宮殿内に移った。別殿は大日本帝国憲法審議の場でもあり、のちに憲法記念館 (現在の明治記念館) として保存された。その後、現在の国会議事堂に庁舎が設けられ、1921年 (大正10年) には宮城内桔梗門近くに移転し、後に建築される議事堂の小規模版として建設された。

戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用されたが、1984年 (昭和59年) より使用されなくなり、2006年 (平成18年) より改修工事が行われ、2012年 (平成24年) に完了し、翌年から再び、皇宮警察本部庁舎 (本部長室・警務課等) として使用されている。

内部の様子がインターネットに出ていた。


結局、三の丸の内側は殆どが立ち入り禁止地区だったので、早く終了した。この後に続けて、二の丸の散策をする。二の丸訪問レポートは別途。