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江戸町巡り

【本郷①013】本郷森川町

2017.12.09 11:47

町番号:本郷①013

町名:本郷森川町

読み方:ほんごうもりかわちょう Hongō-Morikawachō

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:1965(昭和40)年3月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本郷」

現町名:文京区弥生一丁目、西片二丁目、本郷六・七丁目

概要:1872(明治5)年、三河岡崎藩本多氏下屋敷、先手組屋敷等の武家地を合併して起立。同年の戸数200・人口695(府志料)。町名は江戸期に幕臣森川金右衛門の屋敷付近を「森川宿」と俗称していたことによる(画報、府志料、案内)。幕府は江戸防備のため、幕臣の森川金右衛門氏信一族にこの辺り(本郷六丁目の木戸際から追分までの間)に適当な屋敷を与え、与力6騎・同心50人で構成される一戦闘単位を形成し、中山道の警備に当たらせた。先手組頭は森川金右衛門で、与力はたいてい森川氏の親族で同じく森川姓を称していたので「森川宿」といわれたとも。「宿」とは当時中山道の建場(立場)であったからである。「建場(立場)」とは、馬建場で人馬の休むところであった。当町近辺は中山道と岩槻街道の分岐点にあたり、中山道に面し立場(立場)と相応しかった。

「森川町一番地は本多子爵家の所有地で町内の約四分の三を占めているが、邸宅以外は残らず之を貸地として戸数五百余を算して居る。因て字を設くること左の如しと云ふ。北表通、北裏通、南表通、南裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横町、油屋横町、椎下、橋通、橋下、谷、新開」(本郷区史)。

明治以後は東京大学を中心とする下宿街として発展、「大学前」と俗称された。当町には徳田秋声、二葉亭四迷、淡島寒月、斎藤緑飴、幸徳秋水等、多数の文人が居住し、金田一京助、石川啄木の下宿した蓋平館(後の太栄館)も町内の高台にあった。

東京大学赤門と正門の間の横町、落第横丁に入ると、本郷森川町から本郷台町にかけて、東大生相手の下宿屋を前身とする古くからの旅館が数多く残っている。これは米軍が近隣に東京帝国大学があることで空襲目標から外したためであるといわれている。

1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本郷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都本郷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。当町の中心に、本多平八郎忠勝を祭る映世神社があったが、戦後廃社となった。

1965(昭和40)年4月1日、住居表示の実施により、現行の弥生一丁目、西片二丁目、本郷六・七丁目に編入となり消滅。

撮影場所:本郷森川町

撮影地:文京区本郷六丁目23番5号(鳳明館森川別館)

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