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「宇田川源流」【日本万歳!】 「風流」という日本人の最大の「美意識」と「美学」

2022.04.10 22:00

「宇田川源流」【日本万歳!】 「風流」という日本人の最大の「美意識」と「美学」


 毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。日本人のすばらしさや日本人の国民性を色濃く出しているエピソードそしてその内容を報道するニュースを取り上げ、そのニュースに関してしっかりと話をしながら、その内容を検証してゆくということになる。日本人のすばらしさの原点は日本人の国民性や生活習慣、そしてこの心の中にあるのではないか、私はそのように信じているので、この連載を続けているのである。

 日本人において「春」というのは二つの意味があると思う。もちろん、誰かが一定田野瀬はなく、この内容を主催している私がそのように思っているものである。「新春」というと、一年の始まりということになる。現在の暦で言えば、完全に「冬」なのであるが、それでも「春」を言う言葉を使うのである。

 春という言葉は、当然に「季節のはじめ」という意味があるのと同時に「花が咲き、冬が明けてこれから物事が始まる」というスタートという意味も存在する。なんでも海外に合わせようとする人がいて、日本の画工の入学式や粘土が4月はじまりであることを9月に変えようというようなことを主張する人がいるが、それは、日本の文化を完全に無視した人々であるといわざるを得ない。もちろん、海外、特にアメリカなどと合わせるということの重要性はあるし、その方が留学などに関しては効率的であるということもある。しかし、そのような話ではなく、日本は農業国であり、春に種を撒いて秋に収穫するという稲作文化を重視している国家であるのだから、当然にそのサークルに合わせて物事を考えるべきであるし、また、その話をしっかりと伝えてゆくということも重要なのではないか。そのような意味も知らずに、何かわかったような顔をして海外と合わせるという運動には私は反対の立場を取りたい。

 さて、先ほど「春になると花が咲き」ということを書いたが、よくよく考えていただければ、その「花」というのは、何なのか。実は日本の場合、奈良時代は梅の花であったのです。ですから、万葉集では梅の花の方が多く出てきていますし、また、平安時代中期菅原道真も「梅」を詠んでいます。

 しかし、それが桜に変わるのです。

観月舞台の床にも咲き誇る夜桜…混雑緩和のため、今年は予約制

 滋賀県内各地で桜が開花し、大津市の三井寺(園城寺)では、境内に植えられた約1300本の桜を夜間に照らす「春のライトアップ」が行われている。

 昨年に初めて実施した観月舞台での観賞は、混雑緩和のため、今年は予約制にした。床にアクリル板(約4メートル四方)を敷くことで、夜桜が鏡のように床にも映える風情を〈貸し切り〉で5分間、堪能できる。

 夜間入山料(大人1000円、高校生以下500円)のほか、1組(6人まで)2200円が必要。ライトアップは10日までの午後6時~9時半。観月舞台での観賞は、昼の部(午前9時~午後5時)も同日まで予約制で受け付ける。

 2日現在の開花状況は六~七分咲きという。問い合わせは三井寺(077・522・2238)。

2022年04月03日 12時19分 読売新聞

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12213-1558205/

 「花」が「桜」に変わる経緯というのはよくわかってはいない。たぶん誰かが桜の方がよいというような感じのことを言ったのであろう。いずれにせよ平安時代後期、源よす常などは「義経千本桜」というようなことを言い、まあ、それは歌舞伎の演目なので江戸時代にできたことかもしれないが、それでも、「一目千本桜」というような山があるということは、それなりに、梅ではなく桜が花といて重視されていたというようになるのではないか。そのように言われれば、奈良や京都に、奈良時代や平安時代に存在する桜の木などはない。まあ、残っていないだけということもあるし、戦国時代などのs年欄にとって桜が無くなったという解釈もあるかもしれないが、それでも桜の名所というのは近年のものではないか。

 例えば、秋の「紅葉」も、昔は「黄葉」と書いて銀杏を楽しんでいましたが、いつの間にか紅葉に変わっています。このように考えると、時代に従ってさまざまなかちかんがかわってきているということになるのではないか。まあ、そのように日本人は価値観が変わってきている。それでも、菅原道真のころに比べれば1000年の時代が経過しているのであるからなかなか歴史が深いのではないか。

 さて、桜とは「稲の神様の大和言葉」である「さ」と、高貴な人が座る椅子「くら」が一緒になって「さくら」となっている。つまり、桜の花が咲くということは、高貴な稲の神様がそこに着て花を咲かせたということになり、その桜の花が散ることで水が浄化され(神様の力を得て)その神様の力が、稲に宿るというようになっている。

 その桜の歴史は別な機会に書いたのであるが、実際に、桜そのものをめでる日本人の感覚というのが日本の「心」なのではないか。日本人は桜という花が好きである。花見をしていると、基本的には毎年違わない華であると思うが、それでも桜の花を写真に残している人が少なくない。私などは桜と富士山は日本人に特別な感慨を持たせるものであると思っているのであるが、いかがであろうか。

 その桜は、一度に咲き乱れ、葉などは付けずに一色に染まり、そして、最も美しい姿をとどめることなく、すぐに散ってしまう。日本人の「散る美学」がそこにあるというのであるが、実は「散る」ということは、来年も桜の花が咲くのであり、「再生」をしっかりと考えているのである。妻い「散るから次が生まれる」ということになり、そのことが日本の循環の社会を作る。そして、それが次の一年も繰り返される(つまり同じように繰り返されることによって安定する)ということがあるから、日本人は風流を楽しみながらも安定した面持ち持てるのではないか。

 日本人の国民性を最もよく表しているのが「多年生の樹木に一瞬鼻を衝け潔く地理ながら次を生み出す桜」ということなのではないか。

 日本人の国民性は、非常に奥が深いものである。