末っ子の"だいすき"
「ウィリアム、良いな…?」
「えぇ…確かめて、みましょう」
ルイス、とモリアーティ家の次男は弟の名前を厳かに呼んだ。
呼ばれた当人は兄達の前で上手におすわりをしながらブロックを手に、それらをゆっくり積み重ねていた。
まだ幼いというのに真剣な表情でブロックを三つも積み重ね、バランス良く乗った様子を見ては両手を広げて笑っている。
「あう?」
兄達の見守りの元ブロック遊びをしていたのに、二人が褒めてくれる様子はない。
けれど名前を呼んでくれたのだからこれから褒めてくれるのだろうかと、ルイスは大きな赤い瞳をまぁるく見開いては顔を上げていた。
「にに?」
「…!」
「ウィリアム、やはりこれは…!」
「間違いない…兄さんも呼んでみてください」
「あぁ…ルイス」
「う…?に?」
「「…!!!」」
こてん、と首を傾げてアルバートを見上げるルイスの顔は純粋な疑問を浮かべている。
それはまるで、なぁに、と言っているかのようにも見えた。
表情とともにルイスが発した単語を把握した瞬間、ウィリアムは重ねられたブロックを倒さないよう注意しながら小さな弟を抱き上げる。
「にーに?あー、きゃぁきゃ」
慣れているのか突然抱き上げられたことに驚く様子もなく、ルイスはようやくブロックの出来を褒めてくれたのだと判断する。
きゃらきゃら笑いながらウィリアムの腕に抱きしめられていると、横からアルバートの腕も伸びてきた。
「ルイス、僕のことを呼んでくれたんだねっ」
「私のことも呼んでくれている!もしやとは思っていたが、やはり…!」
「ふ、ぅ?にー?」
もしやとは思っていたのだ。
まだ柔らかい喃語しか喋らないルイスだが、時折ある特定のものを見ては特定の音を出していた。
ミルクを見たときは「み」と発語するし、そもそも嫌がったときの自己主張は「ぶー」である。
喃語であろうと、ルイスの言葉には明確な意味があることは確かだ。
兄達は、さすがルイス、賢い子だねと言語獲得の過程を温かく見守っていたのだが、ここしばらくのルイスはウィリアムとアルバートを見るとやたら「に」という音を出していた。
気のせいかと思っていたけれど、観察した結果としてはウィリアムとアルバートを見たときで若干の違いがあるのだ。
ルイスはウィリアムを見れば「にに」、アルバートを見れば「に」とだけ音を出す。
これはつまり、そういうことなのだろう。
「ねぇルイス。僕は誰かな?」
「にに!」
「正解。じゃあこっちの人は誰だろう?」
「に!」
「正解だよ、ルイス。さぁおいで」
「ん〜ぅ、んふふ」
ウィリアムの腕の中からアルバートの腕の中へ移動したルイスは、撫でてくれる長兄の手に満足そうな笑い声をこぼした。
小さな手でアルバートのシャツを掴む仕草はとても可愛らしい。
「私は一番目の兄だから「に」、ウィリアムは二番目の兄だから「にに」という意味なんだろうな」
「おしゃべり出来るようになったんだねぇルイス。凄いね、とっても偉いよ」
「もっと前から私達のことを呼んでくれていたのに気付かなくてすまない。ありがとう、嬉しいよ」
「あ〜、うゅ」
もしやとは思っていたが、確信したのは今日だ。
通常の乳幼児が言葉を喋り始めるタイミングと比較すればやはり随分と早いのだろう。
中身はルイスなのだから頭の良さは間違いないのだし、そうとなると、たくさん言葉を教えてあげればその分だけ早くに言葉で意思疎通が図れるようになるに違いない。
早くルイスとたくさん話がしたいと、ウィリアムとアルバートは今まで以上に言葉を教えるべく手を尽くすことにした。
「へぇ。それでアルバートもウィリアムも、熱心にルイスとおしゃべりしてるの」
「さようでございます。ルイス坊っちゃまも賢いお子さんですからね、絵本は大好きなご様子で」
ウィリアムとアルバートがルイスに絵本を読んであげるのはよく見る光景で、何ならルイスが生まれてくる前、母のお腹にいたときからアルバートはそのお腹に向かって絵本を読み聞かせていたくらいだ。
ゆえに何も珍しくはないのだが、至極楽しそうに声を出す長男と次男、それを喜ぶ末の子というのは母として感慨深いものがある。
生まれたときから三兄弟の世話を担っているナニーも同様に感じており、朗読の合間に解説と称した豆知識の披露はとても微笑ましかった。
「ルイス、この動物は犬さんだよ。わんわん」
「わんわ!」
「こっちは猫さんだ。にゃーにゃー」
「にゃあにゃ!」
「こっちは蛙さんだね。けろけろ」
「けーお、け?」
「ふふ、そうだよ。上手上手」
舌と喉がまだ未熟なルイスに合わせて発音しやすい鳴き声を教えてあげれば、ルイスは素直にそれを繰り返す。
元気に声を出すルイスは話すのが楽しいようで、恥ずかしがる様子もなくウィリアムとアルバートとおしゃべりをしていた。
「いーぬ、ねっこ、かえう」
「そうだよ、よく覚えたね」
「わんわ、わんわ」
「うん?ルイスは犬がすきなのかい?」
「すち…?」
ウィリアムの膝の上で絵本の読み聞かせを受けていたルイスが、すぐ隣にいるアルバートの言葉に首を傾げて彼を見る。
おそらくこのルイスに以前の記憶は何もない。
ウィリアムは今のルイスと同じくらいの月齢になった頃、言葉が発せると気付いたときからすぐにアルバートと言葉でコンタクトを取っていた。
だがルイスはそれをしようとしないし、ただ純粋に読み聞かせやブロック遊びを楽しんでいる。
普通の子どもと同じように成長しては発達しているだけだと、察しの良い二人の兄は既に気が付いていた。
そうでなければ、ルイスの離乳食を始めるときにあれほど手こずるはずもなかったのだから。
今のルイスはルイスなりにたくさんの知識を吸収している最中だ。
知らないことは教えてあげなければならない。
それは兄である自分達の責務だと、アルバートは絵本のページを握っているルイスの手を取り、優しく言葉の意味を教えてあげた。
「すきとは相手を大切に想う気持ちのことだよ。私はルイスがすきだ」
「僕もルイスがだいすきだよ」
「…すち、だいすち?」
「だいすきは、すきよりもっともっと大きなすきという意味だよ」
「……ぅ」
抽象的で分かりづらいだろうか。
だが好意を表す言葉を分かりやすく表現することはとても難しくて、おそらく会話をある程度は理解しているだろう幼いルイスの頭脳に期待するしかない。
物や存在を教えるだけならば簡単なのに。
ウィリアムは後ろからぎゅうとルイスを抱きしめ、アルバートは小さな手指を開いて握手するように握りしめた。
「にに、に、だいすち」
「え?」
「ルイ、ににと、に、だいすち」
幼いルイスは自分の名前がルイスだと理解した上で、誰が誰をすきなのかを明確に言葉へ乗せてみせた。
それどころか「と」という格助詞まで付けている。
単語だけではない立派な文章になっているという事実に、様子を眺めていた母と乳母は感動した。
「あらルイス、上手におしゃべり出来たわね。お兄さん達もきっと嬉しいわよ、ねぇアルバートにウィリアム」
「…アルバート様?ウィリアム様?」
「にーに?にー?」
せっかく教えてもらったばかりの言葉を話したのに無反応なことが不満なのか、ルイスはぺちぺちとお腹に回っているウィリアムの手を叩いている。
同時にアルバートの指をぎゅうと握っては返事を求めていた。
だが二人はいつまでも固まったまま動かないし、何も喋ってくれない。
ウィリアムもアルバートも今に限らずよく「だいすき」という音を伝えてくれるから、きっと良い言葉だと思ったのだ。
だからルイスも同じように伝えたのに、もしかすると何か間違えてしまったのかもしれない。
ルイスは二人からだいすきをもらうと嬉しいのに、二人はルイスからのだいすきなどいらないのだろうか。
小さな頭でぐるぐるとそんなことを考えたルイスは短い眉を下げ、ふっくらした頬を縮ませた。
「…ぶー、の?」
この「ぶー」はルイスからの拒否ではなく、ウィリアムとアルバートは嫌だったのかと尋ねているのだろう。
さっきまでご機嫌だったルイスは途端にしょんぼりとした、乳幼児に似つかわしくない悲しそうな顔をしている。
「にに、に、すち、ぶー…?」
小さな声でルイスが懸命に喋っているというのに、未だにウィリアムとアルバートからは返事がない。
いよいよ大きな瞳が潤み出して泣き出しそうになった瞬間、見かねた母が慌ててルイスの言葉を否定した。
「ふぇ、あぅ〜…!」
「違うわ、ルイス。兄様も兄さんもルイスが上手におしゃべりしてびっくりしてるのよ。ルイスからのだいすき、とっても嬉しいから大丈夫よ」
「う〜…まぁま、まま」
「あぁもう、ルイスおいでなさい。ウィリアムもアルバートもルイスを離して」
すぐ近くまでやってきてくれた母に助けを求めるように、ルイスは囚われていない左手を伸ばしてウィリアムの腕を脱出しようとする。
初めての「ママ」に喜ぶ時間もないと、慌ててルイスを抱き上げようとした母は思いの外強い抵抗にバランスを崩しそうになった。
「ちょっと、ウィリアム、アルバート」
「にに…?」
「…ル、ルイス…!!!」
「ルイスが、だいすきと言ってくれた…!!!」
「ぅ、む?」
あなた達ねぇ、と呆れた母の声は届いていないようで、ウィリアムとアルバートは感激で瞳を潤ませながらふにゃふにゃと柔らかいルイスの体を抱きしめた。
その力強さにルイスの顔には苦痛が過ぎるけれど、これを与えているのはウィリアムなのだと認識すれば拒否することはない。
ふと横を見ればウィリアムがルイスの肩辺りに顔を伏せていて、上を見ればアルバートがルイスと繋いでいない方の手で目元を覆っていた。
「ルイスが喋った…ルイスが僕のこと、僕と兄さんのこと、だいすきだって…うっ、うぅ〜」
「く…まさかこんな日が来るなんて…こんな、可愛らしいルイスの姿を見られる日が来るなんて…っ!」
「にーに?にー…?ぶー、の?」
「…違うわよ、ルイス。ぶーじゃないわ。お兄さんはあなたのことがだいすきなのよ」
「だいすち?」
「そう、だいすちなの。兄様も兄さんも、ルイスがだいすちよ」
「ルイ、だいすち…」
今にも泣きそうな、というよりもう8割泣いている兄達にため息を吐きながら、母はしょんぼりした顔のまま戸惑っているルイスに正解を教えてあげる。
こんなにも小さいのに戸惑いという感情を覚えるなんて、この子は近い将来苦労するのかもしれない。
我が息子ながら申し訳ないわね、とルイスの兄としてウィリアムとアルバートを産んでいた母は若干の後悔を覚えたが、ルイスは母の気持ちなど知らないように頬を染めていた。
ぽぽぽ、と春先の花々を移したような頬の色はとても鮮やかで、滑らかな肌質と相まって何だか綿菓子のようだ。
抱きしめてくるこの力強さはだいすきの証なのだと、ルイスはそう判断する。
それが分かれば母に脱出を求める必要などどこにもなかった。
「にに、に、だいすち!」
「ありがとう、僕もルイスがだいすきだよ…っ」
「私もすきだよ。愛している、ルイス」
「ん、きゃあ〜」
ようやく兄達から納得のいく返事をもらったルイスはとても嬉しそうに笑う。
感極まったまま身動き取れずにいた二人の体はゆっくりと動き始め、どこか震えたようにルイスへと触れていた。
未だ感動から抜けきれないウィリアムとアルバートは気を鎮めるために大きく息を吐き、伏せていた顔を上げていく。
かろうじて泣いてはいなかったけれど、それは彼ら個人のプライドゆえなのだろう。
「ルイス、たくさん言葉を教えてあげるから、いっぱいおしゃべりしようね」
「あぃ!」
「色々なものを見に行こう。外にはたくさんの物があるから、ルイスもきっと楽しく覚えられるはずだ」
「あぃ!」
「ルイスは犬さんがすきなのかな?犬さんも猫さんも蛙さんも見に行こうね」
「わんわ!にゃあにゃ!けおけ!」
「そうだよ、わんわんとにゃーにゃーとけろけろだ。覚えていて偉いな、ルイス」
「んふふ〜」
今までにも庭を散歩することはあったがあくまでも敷地内でのことで、決して屋敷の外へ出ることはなかった。
けれど今のルイスは色々なことを学んでいる最中なのだから、たくさんの刺激を浴びた方が良いだろう。
そうすればきっとルイスは喜ぶし、楽しんでくれるはずだ。
何も覚えていないのならそれで良い。
寂しい気持ちはあるけれど、血生臭く後ろめたい記憶などなくてもルイスは自分達の弟なのだから何の影響もない。
今度こそルイスらしく無垢なまま育てていきたいと、ウィリアムはそう願う。
アルバートも同様に、ルイスの以前の記憶がないのならば無理に思い出させずとも良いと考えている。
記憶の有無だけが絆ではないし、こうして何も覚えていないルイスが兄として自分達を慕ってくれていることが何より嬉しかった。
「ルイ、ににと、に、だいすち!」
ルイスはご機嫌な様子でもう一度目一杯のだいすきを口にして、その愛らしい姿にウィリアムとアルバートの頬はこれ以上ないくらいに緩み、言葉に出来ないほどの尊い感情で全身を覆い尽くすのだった。
(そういえば、どうしてルイスは僕のことを「にに」と言うのでしょう。間違っていないけれど、兄さんなんて言った覚えはないのに)
(確かにそうだな…ルイスを思うと不思議ではなかったが、私のことを「に」と呼ぶのも確かにおかしな話だな)
(あら、それならわたしとばぁやのおかげね。あなた達のことは兄様と兄さんだって教えたし、二人が何時に帰ってくるか毎日話していたから)
(え、そうだったんですか?)
(さようでございます。お二人が学校へ行っている間、ルイス坊っちゃまが悲しそうにしておられるので「アルバート兄様とウィリアム兄さんは4時に帰ってきますよ」と日々お伝えしておりました)
(なるほど…ところで、どうして私のことは兄様と?)
(二人とも兄さんだと紛らわしいから呼び分けた方が良いかと思ったのよ。でも、ルイスも発音出来ないなりに工夫していて偉いわねぇ)