【下谷①005】下谷長者町
町番号:下谷①005
町名:下谷長者町 一・二丁目
読み方:したやちょうじゃまち Shitaya-Chōjamachi
区分:町丁
起立:元禄年間(1688~1704年)
廃止:1964(昭和39)年9月30日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」
現町名:台東区上野三丁目1、4・5、8~10番、20・21番、五丁目
概要:この地には天正(1573~1592年)の頃、「朝日長者」という者の邸宅があったという。『案内』に、「古えの下谷村の内也。朝日長者と曰う豪戸の邸地なりと云い伝う。後幕府の土地なり、罹災後空地となり居たるを、元禄中市街を開き、長者町と称す」とある。その後、幕府の徒士組の屋敷になったが、明暦の大火と思われる火災に遭って屋敷は全焼した。
この後、元禄年間(1688~1704年)には、幕府からの拝領屋敷となり、一丁目には能役者金春惣右衛門他10名、二丁目に茶坊主長坂清寿他11名が拝領(備考)。この頃から当町は「下谷長者町」と呼ばれるようになったといわれる。町名は朝日長者の宅地の中にできた町という伝承に因んで付けられた。南から北へ一丁目が2ヶ所、二丁目が2ヶ所、二丁目代地があって、南北に細長い町域であった。講道館柔道発祥の地といわれている永昌寺は1558(永禄元)年、当町内に創建されたという。山号は「朝日山」という。1882(明治15)年、嘉納治五郎(1860~1938年)がここで道場を開設。なお、永昌寺は現在、東上野五丁目1番にある。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、上野南大門町の一部と下谷一丁目代地が二丁目に編入され、町域を拡げた。同年の戸数353・人口1,182(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、一丁目は上野三丁目(1、4・5、8・9番)に、二丁目は大部分が上野三丁目(10、20・21番)に、一部高架下が五丁目に編入となり消滅。
※『角川日本地名大辞典』には「明治44年まで浅草を冠称」とあるが間違い。
撮影場所:下谷長者町二丁目