【下谷①012】下谷北稲荷町
町番号:下谷①012
町名:下谷北稲荷町
読み方:したやきたいなりちょう Shitaya-Kita-Inarichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1964(昭和39)年9月30日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」
現町名:台東区東上野四・五丁目
概要:この地は、徳川家康入府以前は、姫が池へと繋がる沼地で、附近一帯は大雨が降ると沼や川が氾濫していた。1590(天正18)年、家康が江戸に入府してから治水工事が実施され、沼地は埋め立てられていった。はじめは水田の他、同心宅地等町屋が建てられてたが、江戸時代初期の頃から、江戸中心部の寺院がこの地に移り、門前町が開かれていった。
1869(明治2)年、門前町と隣接する下谷辻番屋敷町を合併して、下谷稲荷町が起立。町名の由来は町内に稲荷神社があって、俗に「下谷稲荷町」と呼ばれていたことによる。稲荷神社とは現在の下谷神社である。下谷神社は古来、「下谷稲荷」と称していたが、1872(明治5)年に「下谷神社」と社号を改めた。同年の戸数209・人口871(府志料)。
1872(明治5)年、新寺通り(現・浅草通り)で南北に分けられ、それぞれ「下谷南稲荷町」、「下谷北稲荷町」となった。江戸期の下谷宗源寺門前と下谷西蓮寺門前にあたり、通称を「広徳寺通り」、「広徳寺前」、「(浅草)新寺町」といった。成立時には広徳寺をはじめ、8寺院を併合。同年の戸数74・人口282(府志料)。
なお、広徳寺は「円満山」と号し、1672(寛文12)年に神田から移転してきた京都大徳寺の末寺で、柳生宗冬、菊池五山等の墓があり、境内が広く、9,674坪もあったが、明治以後次第に削られていった。
1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1930(昭和5)年建造の下谷区役所の敷地も嘗ての広徳寺の境内である。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、東上野四・五丁目に編入となり消滅。なお、広徳寺は台東区役所の拡張計画に応じ、1971(昭和46)年に練馬区に移転。
撮影場所:下谷北稲荷町