「夢を信じて」
2017年12月10日
マタイによる福音書1章18-25
生まれてくる子どもはインマヌエル(神我らと共にあり)。
素敵な言葉。
だが、神が共にあるならどうして悲しみがあるのか。
闇があるのか。
「神が共にある」とはどういう意味なのか。
主イエスの誕生。
処女マリアから生まれる。
まことに奇跡。
神の業。
神は全知全能。
不可能はない。
ならば天から救い主を降臨させてもいいのでは。
どうして、マリアが必要だったのか。
さらにマリアの婚約者ヨセフの参加まで求める。
なぜ神はお一人でなさらないのか。
ヨセフは恐れていたと記されている。
ヨセフの思いとはどういうものだったか。
自分の知らないところで起こっているものがある。
怒りも生まれる。
嫉妬もあった。
そして、その根本には自分が関係から弾かれている。
関係のないものとされている、との自覚があったのではないか。
関係がない。
私たちは日常的に「関係がない」に脅迫されている。
私は「自分の予定・未来」と関係がないに置かれはしないか。
自分の「夢」と、
自分の「仲間たち」と関係がないに置かれはしないか。
この世界と関係がないに置かれはしないか。
私たちは弁えている。
どのようなものも、最後は必ず「関係がない」に襲われてしまうと。
マリアは生まれてくる子どもと関係がなかった。
ヨセフはマリアの妊娠と関係がなかった。
関係のなかったものたちに神は臨む。
関係がある。
関係を持て。
「神が共にいる」。
どういうことか。
共にいる。
変わらず共にいる。
関係がない、がこの世界の秩序だと私たちは思っている。
その秩序に語りかける。
マリアを呼び寄せ、ヨセフを招く。
この世界は断絶へと向かっているのではない。
呼ばれる。
招かれる。
つながるへ、
関係が生まれるへと向かっている。
関係がない。
別れ、
寂しさ、
孤独。
それが私たちの今の現実であったとしても、
それが全てではない。
引く受けたくはない現実とマリアも、ヨセフも向き合った。
向き合って、見つけられた。
孤独ではなく喜びがそこにあった。
愛があった。
世界は私を見捨ててはいない。
私は孤独ではない。
誰とでも、
もっと多く、もっと深く、
これからの者とも、
これまでの者とも愛し合っていける。
インマヌエル
全てが一緒
クリスマスに起こる奇跡。