【下谷①019】下谷坂本町
町番号:下谷①019
町名:下谷坂本町 一~四丁目
読み方:したやさかもとちょう Shitaya-Sakamotochō
区分:町丁
起立:1745(延享2)年
廃止:1965(昭和40)年7月31日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」
現町名:台東区下谷一~三丁目、根岸一、三・四丁目
概要:はじめ幕府領、のち東叡山領。東叡山寛永寺建立以前は、「上野郷」とも「二葉郷広沢村」とも称したが、寛永寺建立の際、近江比叡山下の坂本(滋賀県大津市)に倣って命名したと伝える。しかし、江戸期の名主二葉伝次郎が所蔵する上野郷の1591(天正19)年の水帳には、既に坂本・坂本前・坂本屋敷前等の地名が見えているという(新編武蔵)。『田園簿』では村高150石余、東叡山領『天保郷帳』では「坂本町」と記し、村高287石余。『新編武蔵』によれば、化政期(1804~1830年)の家数62軒。里俗に当村を「入谷」といったため、村民が農間に作る土器を「入谷土器」と称す。村内には佐竹義宣室の開基と伝える曹洞宗広沢山正洞院、徳川秀忠の命による創建と伝える同宗台徳山正覚寺等、10余か寺の他、藤堂和泉守抱屋敷等があった。奥州街道裏道の発展につれて、裏道に面した坂本村の西部に1638(寛永14)年の頃から町屋が形成され、1745(延享2)年には西方に下谷坂本町が起立、町奉行支配となる。化政期の家数852軒(町方書上)。名主二葉家は毎年正月2日、日光門主に牛蒡25本を献上していた(備考)。また、下谷坂本裏町、深川坂本代地町、浅草坂本町はいずれも当町の一部、収公された部分の代地である。なお、南方の下谷山崎町と接する地には下谷新坂本町が起立した。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数725・人口2,590(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1879(明治12)年、下谷小野照町を四丁目に合併。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1937(昭和12)年、帝都復興計画の一環により、一・二丁目が坂本一丁目に、三丁目が坂本一・二丁目、四丁目が坂本二丁目、金杉一丁目となる。「町」が取れた坂本は、もとは下谷善養寺町、坂本町一~四丁目、下谷豊住町、下谷入谷町、下谷簞笥町(坂本簞笥町)、下谷坂本裏町の一部或いは全部で構成される。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1965(昭和40)年8月1日、住居表示の実施により、下谷一~三丁目、根岸一、三・四丁目に編入となり消滅。
撮影場所:下谷坂本町四丁目