【下谷①026】下谷三ノ輪町
町番号:下谷①026
町名:下谷三ノ輪町
読み方:したやみのわまち Shitaya-Minowamachi
区分:町丁
起立:1745(延享2)年
廃止:1870(明治3)年
復活:1881(明治14)年
廃止:存続 「三ノ輪」として
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」
現町名:台東区三ノ輪一・二丁目、根岸五丁目、日本堤一丁目
概要:江戸期から1870(明治3)年までは下谷三之輪町。「三輪」、「三の輪」とも書いた。年代は不詳であるが、武蔵国豊島郡峡田領三ノ輪村から分立し、1745(延享2)年に寺社奉行支配から町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数256軒(町方書上)。町内の小名に芋洗、梅ヶ小路があり、また千住小塚原町に飛地(下谷三之輪町(北豊島)、南千住原宿町(北豊島))があった(備考)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1870(明治3)年、「下谷原宿町」と改称し消滅。後身の下谷原宿町はその後、近隣の寺院を合併。
1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1881(明治14)年、「下谷三ノ輪町」と復称。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。当町の飛地は北豊島郡南千住町のうちとなる。1891(明治24)年、東京府北豊島郡三ノ輪村字本村の一部を編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。同年、一部が東京都浅草区に編入され、日本堤四丁目となる。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、三ノ輪一・二丁目、根岸五丁目、日本堤一丁目に編入となる。
なお、そもそもの「三ノ輪」について以下に詳述する。
「三ノ輪」とは、江戸時代以前からの地名だが、由来は不明。縄文期、この地は奥東京湾に突出した台地の先端部に位置していたことから、地形に基づいて水と岬を関連付けて説明する説もある。三ノ輪は「箕輪」、「三之輪」等とも書いたという。古い記録にも「箕輪守屋」、「三輪原宿」、「箕輪高屋」等の文字も見られる。この辺りは、奈良・平安の頃、京から常陸の国府へ通じる街道沿いであったと推定される。宿場ではなかったが、旅人を泊める農家があり、宿場的要素が形成され、守屋、原宿、高屋の名が付いたと考えられる。1745(延享2)年に武蔵国豊島郡三ノ輪村から分かれ、下谷三ノ輪町が起立したという。
「三ノ輪村」は、江戸期~1889(明治22)年の村名。豊島郡峡田領のうち。古くは「箕輪高屋」とも記す(新編武蔵)。『田園簿』には「三ノ輪原宿」と見え、『元禄郷帳』、『天保郷帳』には「三之輪村」とある。はじめ幕府領、後に東叡山寛永寺領。『田園簿』の村高は120石余、『元禄郷帳』では98石余、『天保郷帳』、『旧高旧領』ではともに138石高。1745(延享2)年、村内を分割して下谷三ノ輪町を起立。町奉行支配となる。このため、地形が一変し、下谷三ノ輪町を除く9町3反余の地は、小塚原、橋場、今戸入会小名大曲、日本堤西南の方小名蓮田、浅草山谷町西の方小名道久塚等、6ヶ所に散在した(新編武蔵)。化政期の家数3軒(新編武蔵)。水利は石神井用水で、三ノ輪橋を潜り、浄閑寺西側に沿って山谷堀を経て隅田川に至る。高札場は三ノ輪町(現・台東区区域)。浄土宗栄法山浄閑寺は俗に「投げ込み寺」と呼ばれた。新吉原の遊女の亡骸を埋葬したことで知られ、「生きては苦界、死しては浄閑寺」と川柳に詠まれた。村内には遠山左衛門尉抱屋敷があった(新編武蔵)。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数30・人口97(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。1879(明治12)年、「三河島村内彦五郎」と呼ばれた飛地を合併。1889(明治22)年5月1日、石神井用水以南の日本堤西南側と浅草山谷町西側は下谷区三ノ輪町に併合され、用水以北の村域は北豊島郡南千住町、三河島村の大字となる。
「大字三ノ輪」とは、①1889(明治22)年5月1日から1928(昭和3)~1929(昭和4)年の南千住町の大字名。1928(昭和3)~1929(昭和4)年に、南千住町一~十丁目の一部となり消滅。②1889(明治22)年5月1日から1932(昭和7)年9月30日の大字名。はじめ三河島村、1920(大正9)年からは三河島町の大字。1932(昭和7)年10月1日、東京市荒川区三河島一丁目に編入となり消滅。
撮影場所:下谷三ノ輪町