芸は、藝にあらず
はい、突然ですが、ここで問題です。
「芸亭」をなんと読むでしょうか?
「げいてい」と読んで、寄席や演芸場の名前かなぁと思った方が多いのではなかろうか。
正解は、「うんてい」だ。読み間違えるのは当然であって、決して恥ずかしくない。悪いのは、文科省と国語審議会なのだから。
世界最古の漢字辞典である『説文解字』によれば、「芸艸也」(うんは、そうなり。読み下し文:久保。)とある。
絵文字のような「艸」は、並んで生えている草を意味するから、「芸」(うん)は、草(くさ)の総称を意味する。
『続日本紀』(しょくにほんぎ)によれば、奈良時代の末期、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が旧宅である阿閦寺(あしゅくじ)の一隅に外典(げてん。仏教関係以外の書物を意味する。)を収蔵する書庫を設けて、これを「芸亭」(うんてい)と名づけ、自由に閲覧を許したとあることから、「芸亭」は、日本最初の公開図書館と呼ばれている。
図書館自体は、律令制が施行された当初から図書寮(ずしょりょう)があったが、一般には公開されていなかったため、芸亭が日本初の公開図書館ということになる。
https://www.nara-np.co.jp/special/heritage70/no26.html
なぜ「芸亭」と名づけたのかについては、諸説あるそうだ。防虫効果のある草を本の間に挟んでいたから、「芸亭」と命名したというのが有力説らしい。
なお、何の草を挟んでいたのかについては、『新漢語林』(大修館書店)や『現代漢語例解辞典』(小学館)によれば、「芸」は、ミカン科の多年草ヘンルーダ(オランダ語のWijnruit。最近、「ネコよらず」と呼ばれている。)のことだとあるのだが、『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば、ヘンルーダは、明治初年に渡来したもので、「江戸時代の本草書でヘンルーダと称しているものはコヘンルーダのこと。漢名、芸香(うんこう)。」とある。後者が正しいかも?
本の虫除けには、銀杏の葉っぱも用いられるらしい。
cf.文献課の窓から「資料館で植物採集-旧分類の図書 又々-」(京都府立総合資料館「総合資料館だより」No.167(2011年4月1日)2頁・3頁)
このように「芸」は、草を意味し、音読みすれば「ウン」で、訓読みすれば「くさぎ」るであって、「藝」とは全く無関係な別の漢字なのだ。
ところが、戦後、文科省・国語審議会は、「藝」が画数が多くて難しいからということで、「藝」の代わりに全く別の漢字である「芸」を当用漢字表や常用漢字表に載せたわけだ。
なんたる暴挙か!
雑誌『文藝春秋』や『東京藝術大学』が「芸」ではなく「藝」を頑(かたくな)に使い続けているのは、文科省・国語審議会の文化破壊に対するささやかな抵抗と言えよう。
では、「藝」とはどのような意味なのだろうか?
「藝」は、「身につけたわざ。技能。学問。」を意味し、音読みすれば「ゲイ」、訓読みすれば「わざ」、「う」える。
「藝」は、下記の図のように、もともとは草や木の苗を天に捧げ地に植える形を表した漢字だ。
http://qiyuan.chaziwang.com/etymology-2089.html
「藝」は、苗を植えて育てるように、人も幼き頃より教えて育てれば、技能や学問が身につき、才能の花が咲き実をつけることから、「身につけたわざ。技能。学問。」という意味になったわけだ。
藝術、学藝、武藝、藝能など「藝」がつく漢語は、修養・教育によって身に付くものばかりであり、これらにより香り高き文化が花開く。
文化・藝術・修養・栽培を意味する英語のcultureが、耕すを意味するラテン語のcolereに由来することと類似していて大変興味深い。心を耕すことにより、香り高き文化の花が開く点で、同じだからだ。
心を耕すと言えば、母方の祖父は、某藩の旧藩士で、柔術の元祖として有名な竹内流(たけのうちりゅう。柔術、剣術、槍術など武藝十八般の総合武術体系。)の免許皆伝だった。嘉納治五郎先生の招きで、講道館で柔道を学び、日銀に勤めながら、大阪府警や広島県警などでお巡りさんに柔道を教えていた。外国人選手がサンボなどに由来する変わった技を使った場合に、和名で何と呼べばよいかと講道館からお問合せがあったものだ。
祖父によると、どんなに強くても、心の修養が足りない者は、先生から免許皆伝をもらえなかったそうだ。武藝は、敵を殺すわざである以上、これを悪用しかねない者に安易に免許皆伝を認めて奥義を授けるわけにはいかないからだ。
公務員予備校講師をしていた自分のことを棚に上げて述べることが許されるならば、文科省・国語審議会が「藝」という漢字を抹殺したことは、学校がもはや教育の場ではなく、心の修養をさせずに、受験やスポーツのテクニックだけをひたすら練習・訓練する場になっていることを象徴しているように思えるのだ。
令和2年の刑法犯(交通業過を除く)の認知件数は、614,231件だ。これらの犯罪を犯した者も、学校を出ているはずだ。東大卒業の官僚、政治家、実業家や、有名な元スポーツ選手ですら毎年のように逮捕されており、今や学校は、犯罪者養成所だと評するのは言い過ぎではあるけれども、少なくとも犯罪を抑止することには無力であるように思われる。
同様の現象は、芸術の分野でも見られる。
ゲーテは、『格言と反省』で、「悪趣味な者に技術が結びつくと、これより恐ろしい芸術の敵はない。」、「芸術は、見るに堪えないものを表してはならない。」、「文学は、人間が堕落する度合いだけ堕落する。」と述べている(高橋健二訳『ゲーテ格言集』新潮文庫、95頁、109頁)。
現代「芸術」が奇抜さだけを競い合い、人を驚かせはしても決して美しくないのは、それが「藝術」ではなく、悪趣味な者が心を修養せずに技術だけでつくったガラクタだからだ。
この点、奈良市は、「芸」ではなく、「藝」を用いて、「なら工藝館条例 (平成12年6月30日条例第32号)」を制定している。
この条例の本則は、常用漢字表に従って「芸」を用いつつも、題名だけは「藝」を用いている点に、所管課の職員さんや法制執務担当の職員さんの見識と気概が感じられたのだが、みなさんはどのように感じられただろうか。