第4章 消えた掘割と水の十字流
水を制する者は天下を制する。古代中国の昔より、河川を宥め活用した者が国家を治めた。江戸の家康も入府して先ずした事は「要らざる道具だて(江戸城の修復)」ではなく、<道三掘>と<小名木川>の開削であった。江戸期、掘割や上水を造る場合、防水する堰板(シートパイル)が勿論なかったために、必ず地盤の良い場所が選ばれ、更にその上に、天下普請にもみられる様に「時間を置く」即ち、ある程度の前工事を行なった上で間をおき、改めて仕上げを行うという二段階方式をとって、ひとつの工事を進めていった。
1 道三堀・日本橋川(番外)・小名木川・亀島川
道三掘の開削、小名木川の造設、平川を付けかえ、ふたつの掘割を結びつけた、日本橋川の開削は、家康がまだ幕府の実権を握る前の、徳川家自前のプロジェクトであった。天下普請は天正18年(1590))から万治3年(1660)まで、家康、秀忠、家光、家綱の四代70年間に渡って第5次まで続けられ、第2次には江戸城修復のための、八丁掘や舟入堀の建設が、進められて行く事になり、第5次になってやっと江戸の原形が出来あがる。大正12年、関東大震災発生、それに対応して、昭和5年3月に完成した「帝都復興事業」によれば、旧日本橋區と京橋區内には、25の河川があった。改修河川11、新開削1、埋め立て1(西堀留川)の、合計13本が実施され、日本橋川、楓川、京橋川などを拡幅、水深を一間余と深くしてエンジンを動力とした船泊を使えるようにした。因みに新設は、楓川と築地川を連絡する復興運河で、楓川、京橋川、八丁堀(桜川)が、築地川と結ばれる事になる。この結果、築地市場や汐留駅の物資の流通が、舟運によって日本橋方面へと拡大していった。また、道路面においても、幅22m以上の路線が整備され、これに伴い100弱の橋が新、改架され、昭和、永代、八重洲,鍛冶橋の各通りが新設、拡張されている。これらと同時に隅田、浜町、錦糸町公園などの非難公園が造られ、復興小学校に隣接する、小公園も造られ現在も有効利用されている。昭和20年8月敗戦、B29による本土空襲の結果、江戸、東京の街は瓦礫の山と化した。そこでその時点で航行困難な掘割、浄化が困難な掘割を、残土や瓦礫で埋立て造成して売却し、事業費を捻出する方法をとった。戦後の昭和22年頃から、外濠川(鍛冶橋以北)、三十間堀、東堀留川、竜閑川、新川など、続いて外濠川(鍛冶橋以南)、浜町川などが、埋め立てられていった。昭和39年東京オリンピック開催、これに向けて首都高速道路の建設ラッシュが、楓川、京橋川、築地川などを埋立て、日本橋川は水面に橋脚を建て、それにフタをする形で、道路が建設されていった。元禄年間(1688~1703)にほぼ完成された、掘割や江戸湊は壊滅し、江戸の遺産を喰い潰す事で、東京の街の繁栄と生活を維持、成り立たせる政策を取っていったのである。
1 道三堀/「日本橋川(番外)」/小名木川/亀島川
<道三堀>和田倉門前の辰の口から、大手町交差点辺りで右に折れ、呉服橋から日本橋川の一石橋までを、つないでいた掘割である。天正18年(1590)開削、長さ6町52間≒750m、巾20間≒36m)、深さ7~8尺≒2.6m、これを立方体の土に換算すると約七万㎥、2.6m前後の高さの土地が、約1万坪造成出来る事になる。因みに日比谷の入江は、巾800m、長さ約4㌔m、深さ約1.5m、面積は230ha(ドーム約五十個分)であったといわれている。日比谷の入江の埋立ては、神田の山の土をもってなされたといわれているが、道三掘が堀削され、排出された土砂は約7万㎥、深さ1.5mの日比谷入江の約6割が埋立てられる。至近距離である道三堀の土が、使われた公算は充分にある。家康は道三堀と併行して、<小名木川>を造設、次いでふたつの掘割(運河)を、日本橋川で結ぶ事によって、次に行われる、天下普請による利根川の東遷により、東廻り航路からの物資を、利根川を介して関宿まで輸送、ここより江戸川を下り、新堀川を通り、「中川の番所」を通過、小名木川から大川(隅田川)に出れば、そのまま日本橋川を上って、江戸城の蔵米や必要物資を、「和田倉門」へストックする事が出来た。後に蔵米は「浅草御米蔵」に移転している。「ワダ」とは、古代語で海を指す言葉である。
<道三堀>の最初の橋が「銭瓶橋」、江戸名所図絵によると「昔始めてこの橋を架すとき、銭の入りたる瓶を堀り得しゆゑ号とす」としている。また、一説に「昔この所にて、永楽銭(織田家の紋所)引き替えありしゆゑに(千貫に対し玄米一石)、銭替橋と唱えしとなり。また、この地にて銭を売るもの市をたて、毎日両替していたため銭買ばしといひける」という。天正19年(1591)の夏に、伊勢の余市と云う者が、この辺りに洗い湯風呂を造った。風呂銭は永楽銭で1銭、この風呂は1銭で入れるため、以後こう云う共同風呂は「銭湯(せんとう、ぜにゆ)」と呼ばれる様になり、湯女も置かれていた。銭瓶橋の上流は、幕府の典薬寮医官、今大路家曲直瀬道三の屋敷であり、この屋敷のために、新たに造営されたのが「道三橋」である。この堀の名称は、この医師の名から来ているが、この橋には別の名称もあり、それは橋の西側に、熊本藩細川家の屋敷があり、細川家の代々の幼名を彦次郎といった。そこでこの道三橋は「彦次郎橋」とも呼ばれていた。三代家光の時代、橋がない為登城に時間がかかるとした道三に、屋敷の北側に橋を架けさせたという逸話がある。この辺りは「道三河岸」と呼ばれ、堀の両側とも本道、外科、鍼立衆など、医療関係の屋敷が多かったと云う。江戸初期からの材木渡世の家は、城の東側(楓川西岸)に移転させられ、本材木町を起立する。この町は後に、川向こうの深川佐賀町(元木場)、さらに猿江町、本木場、新木場へと、江戸城の外側、東へ東へと移転する事になる。また、江戸初期この地に存在していた町は、その頃、麹町や鎌倉河岸などに散在していた、廓(傾城町)のひとつ「柳町」である。元和3年(1617)庄司甚右衛門の呼びかけに応じ、元吉原江戸町に移転、明暦大火後、浅草田圃に新吉原が開かれるまで営業、甚右衛門もこの町で起居していたといわれる。
<日本橋川>「江戸日本橋より、唐から阿蘭陀まで、境なしの水路なり」と、江戸の学者、林子平は、ロシアの南下策に危機を抱き、寛政3年(1791)「海国兵談」を自費出版、その翌年幕府は、無断に国防論を論じたとして、製本されたものと板木を没収した。それから半世紀後の天保12年(1841)になり、子平は没後名誉回復を果たした。出版されてから約60年後の嘉永6年(1853)、黒船ペリーが来航、幕府は開国政策に大きく舵を切る。この名誉回復は、先見性のない前例主義で周囲が見えない、行政機関がよくやる手で、本人の人権回復のためというより、自分達の体制維持、保身が本音である。さて、「日本橋川」は、総延長4.81㌔、流域面積4.4㌔㎡、隅田川に注ぐ一級河川である。九段下、雉子橋辺りまでは、神田川の原形ともいえる平川の流路にほぼ該当、武蔵野台地を流れてきた平川は、現在の竹橋辺りが日比谷入り江の最上部で、この辺りから入り江に注いでいた。日比谷の入江の埋立てにより、その流路は神田台と田安台の間を流れ、神田から日本橋方向に突き出していた「江戸前島」の根元を横切り、常盤橋から日本橋、江戸橋は、前島を削って東側方向に付け替えられた部分である。元和6年(1620)仙台堀開削、神田川は隅田川(大川)へ注がれる。旧平川の流路であった日本橋川は、市街地を水害から守るため、三崎橋から下流、俎板上流の堀留橋辺り迄を埋め立てられるが、明治になって再開削されこの部分の掘割が後の外濠川となる。昭和39年の「河川法改正」により、豊海橋から上の流れは一石橋を右に折れ、外濠と呼ばれていた三崎橋までを「日本橋川」、一石橋から汐留川土橋までを外濠川と呼ばれていたが、戦後の瓦礫処理などで埋立てられる。
昭和39年の東京オリンピックに間に合わせるため、江戸時代に造られた掘割を利用して、安易な方法で首都高速道路が造られた。日本橋川の様に河川、運河を利用して造られた道路が35%、昭和通りの様に広い車線をもった道路の利用が38%、公有地や民間の土地を利用したものが23%と、殆どが江戸の遺産を喰い潰して、世界の祭典に間に合わせた。日本橋川は埋められずに済んだが、流域水面に橋脚が打たれ、その上に道路部分が被せられ、三崎橋から湊橋の手前(箱崎川跡)までが、高速道路の下を流れる事になり、日本橋川は日陰者の川となった。因みにソウルに流れる、チョンゲチョン川の上にも高速が被っていた。しかし、現在は綺麗に取り除かれ、水辺を楽しむ空間となっている。日本橋上空はあれから60余年、未だに被されている。皇居下を通せた道路の延長から、江戸庶民のシンボル、江戸、東京の顔、日本橋をなぜ護れなかったのか、江戸先人の苦労の歴史を学ぼうとせず、目先の電卓をはじいた結果が、現在高いツケとなって、次世代の人間の背中に重くのしかかっている。少し数字を並べると、江戸期、江戸の町に架けられていた橋は約700近く、それが震災後は約半数に近い425橋に激減、裏を返せば、それだけ河川(掘割)が消滅した事になる。大正10年、河川航通調査では、東京市内の水運の便のある河川は、68河川を数え水面が占める市内面積は、全面積の5%を占めていた。また、昭和35年、東京都の平均道路率(道路が都市に占める面積の割合で、都市の快適さの指標)が14.9%であった時代に、江戸の下町を代表する中央区は24%であった。同時期、世界の大都市、ロンドンは23%、ニューヨーク35%、ワシントン43%で、先ず先ず互角あったが、その後、安易な政策により、江戸の貴重な空間が、埋立てや高速化により、大きく後退していった。この道路率24%という数字は、現在のボストンなどと同じ数字であり、快適さの理想的な数字だとされている。話を日本橋川に戻すと、高速道路が被さった結果、太陽が行き届かず水が汚濁、透明度は2m程で、雨降り日は0.3mとなる。この高速の下を見るため、日本橋の船付き場から川めぐりの観光船が発着、潮位差最高2m、従って潮位が高い時間帯(満潮時)は、橋桁で船が通過出来ず、折り返し運航もあるという。江戸期を通じて、船運により大きく河岸地が開発され、諸国からの物資が江戸の街々に運ばれていき、江戸の大動脈であった日本橋川は、何とも不便な使い勝手の悪い、暗い川となってしまった。近代日本を代表する橋のひとつ日本橋は、渡る人には見えない橋の下の部分にまで、花崗岩が使われている。江戸時代、物や人を運ぶ一般的な手段は舟であった。維新以降陸上交通に代替えされたが、明治44年に架けられた花崗岩の日本橋を設計した、元旗本の血を引く妻木頼黄(よりなか)らは、江戸時代の様に、将来きっとこの橋の下を潜って見る人間を想定、普段見えない橋の下にも花崗岩と獅子の装飾を施こした。因みに、この獅子たち日本橋に何匹鎮座しているであろうか。正解は獅子(4×4)ではなく、橋(8×4)である。
江戸初期、日本橋川本来の川の流れは<亀島川>であった。後に湊橋から下に「新堀川」が開削(武州豊嶋郡江戸庄図参照)され、日本橋川本流となる。 昭和5年の公文書によると、「豊海橋」は、日本橋區北新堀町と京橋區南新堀町を結んでいた。その北側箱崎町の日本橋川沿いにあった北新堀大川端町は、寛文5年(1665)御舟手番所、組屋敷が設置された為、日本橋川を隔てて向かい側に移転、元禄2年(1689)の江戸図には「此所諸国集船湊」とある様に、塩問屋、酒問屋などが多かった。<豊海橋>の創架は、永代橋と同年代の元禄11年(1689)、別名乙女橋、永代橋が出来るまで、ここから石川島をつなぐ渡しがあった。現在の橋は震災復興橋として、昭和2年に架けられた、ハシゴを横にしたような橋であり、フィーレンディール橋という。夜にでもなると白っぽいトキ色にライトアップされ、永代橋の藍色と対比がいい。江戸湊の出入り口に架けられ<湊橋>は、永代橋、豊海橋の元禄11年より早い、延宝7年(1679)創架で20年ほど早い。それだけ、新堀川の開削が遅かった訳であるが、この橋の名の由来は勿論、江戸湊の入り口に立地していたためであり、下り物の酒や酢、塩、醤油などの問屋が軒をならべ、それに付随する倉庫も建ちならんでいた。現在の新川一丁目から、箱崎町を渡すこの橋の界隈では、現在でも酒や酢などを扱う業種が多い。江戸名所図会には「天下祭」赤坂日枝神社の山車や象が、この湊橋を渡っている図が描かれている。
日本橋川や亀島川と、現在は高速となった箱崎川との、水の十字流を過ぎると、高速道路が被さってくる。亀島川の水門の先が、永代通りの霊岸橋、次に日本橋川に架かるのが<茅場橋>である。江戸初期、この橋が架かる辺りは、茅や葭が生い茂る湿地帯であり、神田橋辺りに住んでいた茅商人は、慶長11年(1606)江戸城修復のため、南茅場町(現茅場町一から二丁目)に移転させられた。事跡合考には、「昔は神田橋の外に茅商人あまた住す。いまの八丁堀の茅場町これなり。明暦大火後、燃えやすい茅屋根は禁止され、茅業者たちは本所に遷さる。いま本所の茅場町といふはこのゆゑなり」とある。茅場町薬師堂、永田馬場山王御旅所の近所には、元禄年間(1661~1704)の末、宝井其角が庵を結び終焉を迎えている。生涯酒豪であった「梅が香や 隣は荻生 惣右衛門」東側は亀島川、西側は鎧の渡し、南側は日枝神社の御旅所、北側には日本橋川が流れていた。震災後の区画整理により、南茅場町、北島町、亀島町などを併合して、茅場町一から三丁目を起立、昭和22年から日本橋を冠称している。
「茅場町牧野家の後ろをいふ。此のところより小網町への船渡しを唱えたり」とする「鎧の渡し」は、江戸前島の東際に位置、茅場町一丁目と兜町の間の道を、小網町と結んでいた。永承年間(1046~53)平安末期に起きた「前九年の役」、奥州平定に向かった義家が、此の所より下総へ渡る際に、暴風雨に見舞われ、鎧一領を海に投じ、無事渡航出来たという故事にもとづく。「縁日に 買ってぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」明治五年、現在の証券取引所の前身であった、通商司の政府御用達、三井、小野、島田の三人は、自費で木橋<鎧橋>を創架、明治22年鉄橋、現在は昭和32年製である。広重江戸百、第四景「鎧の渡し小網町」で、川をはさんだ対岸に建ちならぶのは、小網町の廻船問屋の白い蔵である。大きな船の舳先に、半分かくれているのが鎧の渡し舟、その手前を河口に向かっているのは猪牙舟である。岸壁から日傘をさして、その様子を見ている娘の着物は綱模様、帯の柄は渦巻き模様と、広重緻密な構想である。「蔵並ぶ 裏は燕の かよひ道」 凡兆
<江戸橋>の名の由来は、慶長8年(1608)の創架された日本橋より、江戸の中心地であったため、また日本橋に対して、この名称がつけられたという。日本橋より東にあり、伊勢町より本材木町へ行く間の橋で、創架は寛永8年(1631)と、正保年間(1644~47)の二説あり、当初は現在地より下流、「伊勢町堀(西堀留川)」と続く脇に架けられていたが(27間×4間)、昭和2年に復興道路である、「昭和通り」の開通により、現在地に架け替えられた。北側には東、西堀留川が流れ込み、南側はそのまま楓川が結ばれ水の十字流を形成していた。橋の南詰は江戸橋広小路、右岸には「木更津河岸」「土手蔵」「四日市」が続き、左岸は「日本橋魚河岸」が控えていた。「木更津河岸」は、ここより上総木更津まで海路12里半、船は4斗俵を500俵積み込む、120石積みで舳先(水押)が円みを帯びていたため、識別が容易であった。行き交う船は、木更津船を見つけると、よけて航行したと云う。「むさしあぶみ」によると、「日本橋の南、万町より四日市までの町屋を取り除き、高さ四間に川端にそふて北をうけ 東西二町半に土手蔵を畳あげられる」といわれた「土手蔵」は、魚の保管と延焼防止を目的として造られた。その西側にあった、毎月四の日に市が立てられた「四日市」では、魚河岸に対し、乾魚(干物)や野菜などを売り繁昌していたが、明暦大火により、一部は霊巌島に移転している。
<日本橋>は、慶長8年(1608)城東部を埋め立て、町割をした際に日本橋川に創架、長さ37間4尺500寸、幅4間2尺5寸(永代橋約110間)、檜を欄干に欅を躯体とした、多少丸みをおびた、御太鼓橋的な木橋であり、幕府が普請を負担する「御用橋」を意味する、擬宝珠が載せられていた。「この地は江戸の中央にして、諸方への行程もこのところより定めしむ。橋上の往来は貴となく賎となく、絡繹として間断なし。また橋下を漕ぎつたふ魚船のでいり、旦より暮に至るまで嗷々としてかまびすし」と江戸名所図会は伝えている。また、事跡合考では「この橋を日本橋といふは、旭日東海に出づるを、親しくみるゆゑにしか号(なづ)くるといえり」としている。南詰西側は、御触書や町触が貼られた「大高札場」、ここが一番多忙を極めたのは、元禄年間、五代綱吉の「生類憐みの令」関連の頃である。東側が「晒し場」、共に明治初年に廃止。橋中央には路面電車が走っていた頃迄、「日本橋 五街道の 名付け親」と詠まれた、江戸より何里、江戸まで何里の基点となった、「道路元標(0m地点)」を兼ねた、電柱が建っていた。北詰東側は、江戸橋まで日本の魚河岸があり、江戸っ子の初物好きと、三日魚を食べないと、体がバラバラになると云う程の魚好きが、「日本橋魚市場」を活況にさせ、「朝昼晩 三千両の 落ち処」「三ヶ所へ 千金の降る 繁昌さ」とまで詠まれた。
江戸の海(江戸湾)全体が幕府の天領であり、本猟場と呼ばれた漁業専門の集落(浦)が八十四浦あった。また、舟を使わない水深三尺までの徒歩の漁業を行う、十八の礒付村があり、ここで獲れた魚は自家用で売買禁止とされた。後年になって漁業上の紛争も起り、幕府の裁断による解決や、文化13年(1816)には、業者間の申し合わせをした「議定一礼の事」が作成されている。日本橋以前の魚河岸には、神田の「鎌倉河岸」や、芝金杉の「雑魚場」があった。三代目桂三木助の噺(芝浜)によると、日本橋ばかりに河岸があった訳ではなく、芝浜の魚河岸は小魚を扱い、俗に芝魚といわれ、その日の夕刻には市場で販売、冷蔵庫のない時代、各家庭から「夕河岸」と呼ばれて重宝され、ここの夕鯵は旨かったという。雑魚場のきっかけは、天正18年(1590)家康が芝、金杉の漁民達の他にも、漁業権の保護と引き換えに、漁獲物の献上を命じたのが始りとされ、品川浦、羽田浦、神奈川浦など「御菜八ヶ浦」と呼ばれた。雑魚場と呼ばれる場所では、御府内備考によると、この辺を一寸(ちょろ)河岸といい、毎日ほんのチョロと市が立ったという。幕末の頃から人口増による水質の汚染と、黒船に対抗した御台場建設により、漁獲が減少して衰退していった。これは我が国第一号の公害とされている。江戸の拡大と共に、在来の納入する魚介類だけでは、次第に不足がちになり、摂津の国西成郡佃村、大和田村の漁民たちを江戸に呼びよせ、漁と江戸湾の監視の任に負わせ、献上品の残りの販売に許可を与え、売り出されたのが「日本橋魚河岸」である。八代州河岸で肴場を開いていた、森孫右衛門の子九左衛門が、同九年家光の誕生祝い御魚御用を務め、その縁で十二年、日本橋小田原町に市場を開いた事に始まるとされる。日本橋魚市場の会所(組合)は、川の北岸の本小田原町や本船町、安針町などで、主に房総沖など遠海物を取り扱った。(日本橋魚河岸の開設や、佃村、大和田村の江戸下向については、日本橋魚市場沿革紀要、芝浦漁業起立、佃島沿革史などにより諸説ある)「帆をかぶる 鯛のさわぎや 薫る凬」其角。日本橋魚市場は官営的な市場の側面も持っていたため、役人の手下である「手付」の者が、目に止った魚を手鈎に引っかけ「御用」と呼び買いつけた。一文≒25円から十文である。これでは商売にならない。市場の人間はこの手の人間が来ると、手早く高価な魚を隠したという。
また、江戸前の海に関わらず、鹿島灘や外洋の遠海物は。夏の5から7月にかけては「銚子浦より舟子6人にて、日暮れに彼処を出て、夜間に20里余の水路を泝り布佐にいたる。冬は布佐より馬に駄して通しよりこれを江戸へ輸り、夏は活舟(生簾のある舟)を以て、関宿を経て日本橋に至る」としている。 関宿、江戸川、新川(船堀川)に入り、小名木川から日本橋魚市場へ約48里をこなした。8月過ぎから来年4月までの低温期になると、夕刻の銚子から利根川沿岸、下総木下(布佐)まで舟を漕ぎ、ここから駄走して行徳(松戸)、再び舟に積み替えて日本橋へ翌日の夜、積み荷を卸した。その荷を仕入れ、棒振りが街を振り売りに歩いた。江戸湾内の最大の漁場羽田で、手繰や投網などで獲れた鰈、スズキ、キスなど沿岸物の輸送には長さ10m、幅2mの船足の早い八丁櫓「押送り舟(おじょく)」が使われ、「舟も早やかろ 帆なりもよかろ 江戸じゃ小魚値も良かろ」と唄いながら運ばれた。ふたつの市場に加え、日本橋川右岸に乾魚や雑貨を扱う「四日市」があり、本材木町二丁目には、延宝年間(1673~80)開設された「新肴場(新場)」があった。幕府への納魚は、上十日が新場、下二十日が小田原町とされ、新場は主に相模湾などの近海物を扱い、押送り舟で入荷した夜鰹で有名となり「新場夜鰹」と呼ばれた。「夜鰹は 今寝た人を はね起こし」また、歴代将軍が食べる魚を専門に陸揚げした場所は、明治四年開業した日本橋郵便局のある地で、切り絵図では「活鯛(いけたい)屋シキ」、屋敷には生簾があり。生きている魚が江戸城に納められた。
江戸日本橋の魚河岸が一番賑わうのが、元旦の夜である。二日早朝の初売りのため、前の晩の九っ頃(深夜十二時頃)から動き始め、各々の店に定紋が入った高張提灯が、一軒に40から50本ほど建てられる。店頭に鯛や鮪の商品をならべ、側に屋号を入れた雪洞を添える。提灯と雪洞で市場全体が、真昼の様な明るさになったと云う。支度が終わると問屋や仲買の主は、同業の仲間たちへ挨拶廻りとなる2日の朝は江戸市中から、生きのいい買い出し人たちがくる。市場は火事場か喧嘩場のような騒ぎとなり、江戸の喧騒ここに極まり、繁栄と活気がここにあったとされる。現在でもそうであるが、初荷のお客様には、その店のこだわりの手拭を、祝儀として渡す。その手拭を懐に入れ。手拭でふくらんだ懐を前に押し出し、店の間をくぐって行くのも、買い出し人たちの江戸作法、見栄であった。震災により、壊滅的大打撃を受けた日本端魚市場は、芝浦に一時移転、その後帝国海軍が置かれていた築地に再移転、同時に京橋にあった「大根河岸」とともに、東京の台所を担っていく事になる。「初鰹 家内のこらず 見たばかり」 「初ものが 来ると持仏が ちんと鳴り」
<一石橋>1人の人間が1年間食べる米の量はおおよそ「一石」とされている、その値段(旗本、御家人が、俸録米を現金化する時の幕府公定価格)は、江戸期を通しておおよそ約1両であった。この橋の名称の起りは、江戸っ子好みの名の付け方である。橋の南に呉服所の後藤縫殿助、北に金座の後藤庄三郎のそれぞれの屋敷があった事から、後藤(五斗)と後藤(五斗)を合わせ十斗=一石、故に「一石橋」と名付けられたという。似たような話は神田にもある。一色家が二軒その町に存在、故にその町は一色×二=二色=錦町になった、という次第である。「屁のような 由来一石 橋となり」。またこの橋は「八ツ見乃橋」とも呼ばれた。その所以は、東に日本橋、江戸橋(日本橋川)西に銭瓶橋、道三橋(道三掘)南に呉服橋、鍛冶橋(外濠川)北に常盤橋と自身の一石橋(外濠川)の八見の橋が、眺められたことによる。広重江戸百、第六景「八ッ見乃はし」では、大きな柳の樹の下を燕が飛び交い、絵の中央の橋は銭瓶橋、その向こうに江戸城越しに、富士山がゆったりと座っている。もう何年かすると、富士の代わりに、アベノハルカスを越す、超高層のビルが覆い被さってくる。南詰東側には、安政4年(1857一)、日本橋西河岸町の住民たちが、金を出しあって建立、現在唯一残っている「満よひ子の志るべ」が建っている。右側、をしふる方、左側、たずぬる方、双方貼り紙をして情報交換をした。火事や地震の多かった江戸時代、その割にはそれをケアする機能も、人員も欠けていたため、子供たちにとっては災難の多い時代であった。三歳以下を捨て子、三歳以上を迷子と呼ぶ。12歳になり商人の丁稚か、職人の弟子入まで、その子たちを保護した町が面倒をみた。金のある人間は金を出し、時間のある人間はその子たちの面倒をみて、こうして育てられた子供たちは、他人様の有難さを自然と身で覚えた。江戸っ子たちの他人に対する優しさ、気使いが自然と育っていったのである。因みに蜆売りは、この子たちや親が病気で働けない子たちの特権であり、元気な大人たちが侵してはならない、バリアフリーの世界であった。
<常磐橋>慶長12年(1607)の江戸図によると、「常磐橋」は、江戸城正門の大手門に通じる、東の方の外郭門で、本町への出口に向かう、浅草口橋と呼ばれていた。また、平川に架かっていた本丸の下乗橋を、髙橋(大橋)と呼んでいた。「色かへぬ 松によそへてあずま路の 常盤の橋にかかる藤波」(金葉集) この古歌の意をとって、御代を賀し奉りて号くと。従ってこの橋の旧名を「大橋」といい伝えるのは、誤りであるとしている。
<鎌倉河岸>慶長10年(1605)二代秀忠は、江戸城改築のための石材を、伊豆や鎌倉から運搬船(石綱船)で回送、積み下ろした竜閑橋北詰から神田橋の間の場所を「鎌倉河岸」と呼んだとも、ここで働いていた人夫や石工に、鎌倉出身の者が多かったため、この名称がついたともされる。鎌倉町には家康が近江から呼んだ作事方棟梁、甲良家の屋敷があったといわれ、甲良家は江戸城や増上寺、日光東照宮など、幕府関連施設の建設にかかわっていた家である。こうした河岸があると、そこに働く人間を相手にする商売が現れる。当時ここには15日~16軒ほどの遊女屋があり、元和3年(1617)人形町の元吉原に移転している。また、鎌倉河岸といえば、ひいな祭りの白酒で有名な豊島屋である。旧二月二十五日は本来の酒、醤油、油などの商いを休み、現金は釣銭などで手間取るため、前もって販売切手を発行して白酒のみを専売した「ひな棚の 下でとしまの 味をほめ」「白酒や 鎌倉河岸も 星月夜」と詠まれた。因みに、居酒屋とは酒屋で居ながらにして酒を飲ませる処で、大工や左官の職人、棒振り等を相手に、店先で枡や湯のみで、立ち呑みさせたのが始りとされる。豊島屋から次々と居酒屋が誕生、煮売り酒屋から、飯も酒も提供する縄暖廉に発展していった。土間や床に空樽や床几を置いて、1合20文の酒3合と肴2~3品で、100文程度であった。「片足を しまって居酒 飲んでいる」 この豊島屋、戦災までこの地にあり、現在でも神田で営業している。
<神田橋/一ッ橋>「神田橋」の前の道路は、歴代将軍が上野寛永寺に参詣する御成道であった為、厳重な警戒がなされていた。別名は、土井大炊頭利勝の屋敷があったため、大炊殿橋とも呼ばれていた。日本川に架かる「一ッ橋」は、平川と小石川(白山通り)の合流地点であり、合流地点を表す「一つ」がこの地点に架かる橋の名称、さらにこの付近の地名となったとされる。家康入府の頃は一本の丸太の架かっていた橋だとされる。寛永6年(1629)建造された外郭門(見附門)が「一ッ橋御門」で、江戸中期以降、一ッ橋門外は火除け地となり、一帯は「護持院ヶ原」と呼ばれた。天文5年(1740)八代吉宗が将軍継嗣のため、御三家の他に御三卿を創出した際、この橋の名称を取って、子、宗尹に御門内に屋敷を与え一橋家を創立した。因みに御三卿とは、将軍の跡継を輩出する事を目的として、創設された家門で、八代吉宗次男宗武を田安家、四男宗尹を一橋家、九代家重の次男重好を清水家に、それぞれ見附門から名称を取って創設している。幕末、十四代を継いだ家茂は、田安家から紀州へ養子にいき、慶福になり宗家へ入っている。十五代慶喜は水戸家より一橋家に入り、最後の将軍となり、260余年続いた、江戸幕府の幕を引いた。
<雉子橋>慶長12年(1607)、唐人(朝鮮使節団)が来日した際、そのもてなしに雉子料理が最高とされ、雉子小屋を沢山建てた畔に、橋があったため、この橋は「雉子橋」と名づけられた。因みに通信使の総勢は約四百名程、来日回数12回、鯛漁が盛んな瀬戸内海鞆浦などに寄り、江戸での宿泊地は東本願寺であった。「雉子橋で けんもほろろと 叱られる」 「江戸名所図会」を三代にわたって作りあげた、斉藤家が名主として勤めた雉子町(公役町)は、もとは雉子橋御門外にあった人家を、元和年間(1615~24)に、ここに移転したものである。また、雉子町の北の通りには、堀丹後守の屋敷があり、寛永9年(1632一)頃には、この付近に風呂屋が開かれ丹前風呂と呼ばれて、多くの湯女が元吉原を凌ぐ盛況をみせた。活躍をみせた湯女の一人に勝山がいた.
<俎橋>九段下から小川町に渡してあった「俎橋」は、魚板橋とも表記された。そのいわれは江戸初期、飯田川(日本橋川)の上に、俎板の様な木の板が渡してあった、また、近くに御台所町(江戸城台所衆の組屋敷)があった事などによる。江戸初期の架橋とされるが、年代は不明である。西側には飯田町があったが、ここから神保町など、東側に直進する道が無かったため、交通量はさほどではなかったという。飯田町は江戸時代、今の九段北一丁目の九段坂、冬青木(もちのき)坂辺りの町地で、維新後、その北一帯の旧武家地も飯田町の名称で呼ばれていたが、昭和三年国鉄(現JR)が飯田橋駅を開業、飯田町駅が貨物駅になった事から、町名も飯田橋となった。この橋の西詰南側(現昭和館辺り)には、阿蘭陀の書物が収集されていた「蕃書調所」があり、次第に英、仏、独の洋書も置かれるようになった。文久2年(1862)には、洋書調所となり、海外向けの教育機関の働きもする様になった。現東京大学の前身である。万治年間(1658~60)から明治三十六年まで、神田川との合流点、三崎橋から堀留橋(蟋蟀橋、こおろぎばし)までの間は、埋め立てられていたため、堀留橋が文字通りの堀留で、俎橋が日本橋川の事実上の最上流であった。この橋から200m上流の、堀留橋までの西岸が「俎河岸」である。
<堀留橋/三崎橋>「三崎橋」は江戸城修築時点では、外濠の起点とされた橋である。万治年間と寛文4年(1644)の二説ある。神田川開削の際に、三崎橋と「堀留橋」までの掘割を、江戸城を水害から守る為に埋立て、この付近の堀割の終点(堀留)としたため、堀留橋の名がつけられたとされる。明治三十六年再削、日本橋川(外濠川)となっている。三崎は低湿地の中に土砂が積もって、岬の様になっていた事からつけられた名である。江戸初期に、現在の三崎橋付近から南下、日比谷入江まで流れていた自然河川「平川」を、入府した家康は道三堀を堀削、平川を外濠として活用した。瀬替えさせられた平川は、その後開削された仙台堀(伊達堀)を通って、大川へ流れ込み「神田川」と呼ばれるようになり、江戸城の北の外濠の役目をし、南の外濠の役目をしたのが「溜池」である。
<小名木川>
慶長年間(1596~1618一)に、開削されたといわれる「小名木川」は、隅田川と中川を結び、江戸湾内の海岸線の外側に堤を築いた運河で、江戸湾海岸線の確定工事ともいえる。当時、江戸湾北部は砂州や浅瀬が多く、しばしば運搬船が座礁したため、大きく沖合を迂回、時間的ロスが多かった。こうした外洋(江戸湾)の、航海の危険を避けるため内陸水路として、行徳塩の安定輸送を目的として堀削された。担当工事責任者小名木四郎兵衛、当初の川の名は「ウナギサハホリ」であったが、この名がつけられた。長さおよそ1里10町≒5㌔、川幅約20間≒36m、小名木川の開削は、次の利根川東遷により、東廻り航路の拡大と結びつき、江戸物流経済の大動脈となっていく。また、この堤防による南東部の埋立てが、後世深川の土地となっていく。小名木川の第一橋梁は、深川元町(常盤一)と海辺大工町(清澄二)を結んだ、「深川萬年橋」である。この名の由来は「永代橋」に対して、「萬年橋」などの説があるがはっきりとはしていない。元禄時代(1688~1703)から幕末まで、この橋の袂から春秋20回出る伊豆大島への「流人船」は、まだ江戸へ戻る可能性があったが、永代橋からの八丈島行きの流人船は帰還のない終身刑であった。
江戸初期、<萬年橋>の北側に芭蕉庵があり、また、この川は塩の安全輸送を目的としたため、橋よりの宝塔寺には、「塩舐め地蔵」が祀られている。城に対して縦の小名木川は、この先、横十間川、大横川と交差する。この他、縦に流れている深川の川は、竪川、仙台堀川などがある。深川はこうした縦横に巡らされた掘割によって、河岸や倉庫など物流の町として、また、府内からの寺院の移転によって、門前町が形成され、更に新吉原の度重なる火事では、度々仮宅営業の地として利用され、岡場所とともに歓楽街ともなり、多面な顔をもった街へと発展していく事になる。寛永9年(1632)認可された、箱崎川にあった「行徳河岸」から隅田川を横切り、小名木川に入って下総行徳まで、およそ3里8町(約12,7㌔)の定期便は、塩や〆粕、魚油を積載、舟便は半日を要した。元々は深川萬年橋の麓にあった「船番所」は、延宝7年(1679)、中川と小名木川の交差する北岸に移転、「中川番所」となる。明け六っから暮六っまで航行を許可、番所の役人は当初、関東郡代伊奈家の担当であったが、のち旗本三名が五日交替で勤務している。「中川は 同じあいさつ して通り」規則では、笠や頭巾を脱ぎ、籠は戸を開けるなどが決められていたが、明和年間(1764~72)以降は、挨拶程度で通過するようになっていったといわれる。中期になると、物流のみでなく、成田山詣での人達にも多く利用されている。「三味線を 握って通る 船番所」
<亀島川>
かって「日本橋川」の本流であった「亀島川」は、茅場橋と湊橋の中間に位置する、霊岸橋付近で日本橋川から分流、亀島橋辺りで南東に向きを変え、亀の甲羅のような流路を辿り、中央大橋南側で隅田川へ注いでいる、隅田川に注いでいる一級河川である。。亀島河岸、日比谷河岸をもち、箱崎川と亀島川と合わせて、霊岸橋川とも呼ばれたこの川は、この辺りでは珍しく全面に水面を見せている長さ一、〇六㌔mの堀割である。この河口部には、御船手頭向井将監の屋敷があり、船の出入りを検閲していた。亀島川の川筋は、本来の日本橋川の川筋だったといわれ、湊橋より新堀川が堀削された時点では、新しく堀削された堀(日本橋川)が「新堀」となり、北、南新堀町となった。この亀島川に囲まれた島が「霊岸島(越前堀、新川)」である寛永元年(一六二四)、雄誉霊巌上人が拝領してこの地名となる。霊巌上人は浄土宗中興の祖といわれ、家康、秀忠、家光の三代が帰依、知恩院の住職になり、知恩院を将軍の寺として、「投げ銭(賽銭)不用」の寺としている。翌年壇家たちが埋立てを開始、土を運ぶ事に十度念仏を唱えながら、霊巌寺を建立したといわれる。当初は「江戸の中島」とよばれ、また、土地が軟弱なため、「こんにゃく島」とも呼ばれていたこの地は、寺社地、武家地であったが、明暦大火後、霊巌寺は深川白河へ移転、町屋となっている。万治元年(1658)、深川海辺町(白河三)に移転した霊巌寺は、享保の頃旅人の無事を祈るために建造された、「江戸六地蔵」のひとつが置かれ、松平定信や、紀文、奈良重のどの墓地ともなっている。元の霊巌寺の跡地は、大火後、こんにゃく島の地盤強化のために、寺の墓石などが使われた。こうした歴史のせいか、この辺りの庶民の墓石は、元禄時代より古いものはないとされている。霊巌島の南の葭原に、寛永11年(1634)福井藩松平忠昌が(藩狙家康次男結城秀康)、2万7千坪の蔵(下)屋敷を拝領、この屋敷を大川に面して、警備用、水運用にコの字型に巡らした掘割が「越前堀」である。十六代目、慶永(春岳)は幕末、霊巌島の屋敷に隠居、幕末の改革に尽力をしている。
この島の北西側亀島川から分流した<新川>が、河村瑞賢によって開削されたのは万治3年(1660)である。長さ5,4町≒590m、川幅6~9間≒11~15m)、瑞賢の屋敷や茶碗河岸、解屋河岸がある一ノ橋から、酒問屋が軒を並べた二ノ橋を潜り、三ノ橋から南東の大川に注いでいた。当初両岸は材木河岸であったが、下り物が江戸湊へ着く立地にあった処から、北岸の河岸には関西からの「下り酒」の問屋が、南岸には地廻りの酒問屋が立ち並び、新川だけで問屋数の7割近くを占めていた。そうした事から、蔵前の札差商人、木場の材木商人と共に、花柳界では金離れのいい、上客としてもてはやされた。町名は霊巌島から越前堀に、震災後は霊巌島1、2丁目、越前掘1~3丁目、新川1、2丁目となったが、昭和46年には、新川1,2丁目に統合されている。問屋機能は、震災や統制経済の影響で失われていき、地域は戦災で全滅、越前掘は内陸部では明治期に、その後震災後を経て、平成5年に最終的に全面埋め立てられた。