5 水の十字流
1 楓川×三十間堀×京橋川×八丁堀 (三ッ橋、江戸幕末三大道場)
三ッ橋を江戸名所図会は、「一っところに橋を三所架せしゆゑに、しか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを、弾正橋と呼び、略、本材木町より白魚屋敷へ渡るを、牛の草橋といふ。また、白魚屋敷より南八堀へ架するを、真福寺橋と号くるなり」としている。ここには江戸橋方向から流れてきた、楓川に架かる「弾正橋」。ここから汐留川まで伸びていた三十間堀にかかる「真福寺橋」。外濠川から分れた京橋川に架かる「牛の草橋」が「コ」の字に架かっていた。京橋川から直進する八丁堀(桜川)には、何故か三っ橋に対抗する橋はなかった。四っのそれぞれの掘割が、交差(十字流)をなす処であった。北八丁堀より本材木町八丁目に架かっていた「弾正橋」は、寛永年間(一六二四~四三)、松屋町側に島田弾正少弼の下屋敷があった事による。明治十一年、工部省により木橋から、日本最初の鉄橋(十五、二m×二m)に改架、この橋は鋳鉄橋から鍛鉄橋に至る、過度期の鉄橋として意義をもっていたが、昭和四年道路拡張のため撤去移転、現在、富岡八幡宮の境内で、八幡橋として健在である。また、同じ境内には「旧新田橋」もある。この橋は、木場の新田医師が亡くなった奥様を慰める為、大横川に地元の人達と架けたと云われている。
白魚屋敷より南八丁堀に架かる、「真福寺橋」東詰はあさり河岸、この南側に江戸幕末三大道場のひとつ、鏡新明智流桃井春蔵の「士学館」があった。幕末、春蔵は十五代慶喜の警備役を勤めている。土佐の武市半平太や中岡慎太郎らが通い、幕末の人切りと云われた岡田以蔵もいた。斉藤弥九郎の神道無念流「連兵館」は、俎板橋から、靖国神社境内へ移転、門人には桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文など長州の藩士が多かった。日本橋品川町から移転して、神田お玉ヶ池で、北辰一刀流「玄武館」を開いていたのは千葉周作である。弟定吉も京橋桶町で道場を開き、ここには坂本龍馬が通っていた。定吉の二女に小太刀を使う佐那(佐奈)がいた。龍馬死後、千住宿で灸治療院を開き、一生独身を通している。墓碑名は「龍馬室」とある。
2 日本橋川×楓川×伊勢町堀(西堀留川、堀江町入堀(東堀留川、照降町、芳町)
堀江町横町と堀江六軒町新道が合併して出来た「芳町」の町名は、江戸期の俗称によるものである。当初は堀江六軒町新道と堺町横町の二町にまたがる一部で、古くは葭などの生える所であった。元吉原、芝居町が近くにあった関係から、古くから花街として発展、浪花町、浜町、住吉町辺に住む歌妓たちを総称して、「芳町芸者」と呼ばれてきた。東京六花街の中でも、最古の歴史をもつ芳町芸者は、役者や客筋の目が厳しく、加えて芸事の師匠が多くいた事から、「粋でおきゃんで芸がたつ」と云われてきた。新橋、赤坂の芸者を、維新の官軍、薩長土が贔屓したのに対し、芳町、柳橋は昔ながらの、江戸の人間を馴染みとした。明治政府の人間が、芳町、柳橋を相手にしなかったのではなく、逆に彼女たちが彼らを相手にしなかったのである。彼女たちの意地と気風がここにある。「柳橋芸者に、牡丹の深い彩どりがありとするならば、芳町芸者には、百合に似たかほりがある」とされた。
3 日本橋川×亀島川×箱崎川(小網町)
小網町は日本橋川の左岸に位置する町である。思案橋北側に一丁目(末広河岸)、南側に二・三丁目(鎧河岸)、三丁目(行徳河岸)があり、箱崎川まで細長く続いていた町である。古くは入江ヶ岡と呼ばれ、入府後は「小網神社」の名をとって町名とした。寛永年間(一六二四~四三)は番匠町と呼ばれ、町西側は日本橋に接する河岸地で、醤油、油、酢などの船積問屋が蔵を並べていた。この町名の由来となった小網神社は、江戸期以前の文正元年(一四六六)、悪疫鎮静のため惠心僧都により祀られた神社であり、道灌が土地を寄進、名称も付けたと云われる。現在の社殿は昭和四年、明治神宮を造営した大工によって、日本橋地区では珍らしい木造檜造りの神社となっている。また、向拝の昇り龍、下り龍の彫刻は、強運厄除けの龍として知られ、パワースポットとなっている。
4「浜町川×箱崎川」(水天宮)
「水天宮」は、ふたつの堀割が交差する、中の橋から西方に位置する、安産と水難除けの神社である。この神社の歴史は古く、平安末期の文治元年(一一八五)、源平最後の戦いの舞台となった「壇の浦」へ、清盛の妻時子(二位の尼)に抱かれた、安徳天皇が入水する。その時、「我らの霊を慰めよ」と命じられた官女が、筑後川の畔に小さな祠を建て、祀ったのが起源だとされる。その後、久留米藩有馬家に祀られ、江戸期の文政元年(一八一八)、三田赤羽の江戸屋敷にも分霊され、虎の門京極家の金比羅宮と共に、江戸の流行信仰の双壁となる。
医療がまだ未発達であった江戸期は、子供を産むという事は、母子とも非常な危険が伴なった。したがって、一般庶民は信仰に頼りがちになり、安産の神様である水天宮に参拝する者が多かった。そこで有馬藩は、赤羽の屋敷を日を決めて解放「なさけ有馬の水天宮」といわれ、それにともない御賽銭も年間、千五百~二千両ともなり、苦しい藩財政を多いに潤おした。日本橋蠣殻町への遷座は明治五年である。
5 日本橋川×道三掘×外濠川(呉服橋)
外濠川に架かる「呉服橋」は、呉服御用達、後藤逢殿助の屋敷があった事による。慶長江戸図では「町のもの通いの橋」とあり、呉服町成立により、江戸紀聞では、「呉服橋」古くは「後藤橋」と呼ばれた。呉服橋御門は寛永六年(一六二九)、奥州の大名により門、石垣が造られ、十三年細川氏が六千五百両を投じ、枡形門が造られた見附のひとつである。御門内に遠山左衛門尉景元も約三年間奉行を勤めた、北町奉行所が設置され、慶応四年(一六八六)江戸城明け渡しが奉行所内で行われた。受け渡しを直接担当したのは、薩長軍ではなく親藩の尾張藩であった。四月四日、最終合意がなされ、九日静寛宮は清水邸、十日天障院は一橋邸にそれぞれ移転、十一日、十五代最後の将軍慶喜も、寛永寺から水戸へ退去、同日をもって江戸城は無血開城された。明治四十三年になって呉服橋交差点から永代通りを、現在のJR高架へ向かう中間辺りに「呉服橋駅」が設けられ、大正三年まで営業していた。因みに呉服とは、和服用の織物の総称であり、和服の織物には、太物(木綿、麻)、細物に区別されるが、一般的に呉服(細物)という場合は、絹織物を指す。古代中国呉の国から伝わった織り方によって、作れた綾などの織物を指し「呉羽とり」ともいう。
6 小名木川×横十間川(干鰯市場、釜屋堀)
「横十間川」は万治二年(一六五九)、二人の本所奉行が開削した幅十間の掘割である。江戸城からみて、横に流れていたことからこの名がついた。北十間川から南に、続いて竪川までを江東区亀戸と墨田区業平の境を流れ、更に小名木川と交差、そこが十字流(現クローバー橋)となっている。この後、仙台堀と交差した下流の東陽町辺りで大横川に合流している。鎌倉時代頃は、田圃や畑の肥料は厩肥や草木肥、下肥などの自給肥料であったが、戦国時代から江戸時代に入って、アブラナの種を絞り、照明用と食用の油を取った油粕や、三陸沖、下総国銚子や九十九里で獲れた鰯を干した「干鰯」や、鰯やニシンを大釜でゆで、魚油を絞り取った後の粕を、乾燥させ固めた「〆粕」が使われるようになる。これらは金を出して購入する肥料であった為、「金肥」といわれ、阿波徳島の藍や三河の木綿、紀州の蜜柑等に施され生産性を伸ばした。関東では当初、浦賀辺りであったが、元禄八年(一六九五)、深川に揚場が設けられ、享保年間(一七一六~三五)には、銚子場など四ヶ所となった。利根川から関宿に入り、江戸川から中川船番所と運ばれてきた干鰯は、深川の小名木川沿岸(現白河辺り)に干鰯市場を開設、新川の江戸湊で積荷を卸した下り船を使って、関西方面に運ばれていった。文治元年(一八六四)、銚子港は空前の鰯の大漁となった。この時唄われたのが銚子大漁節である。「五つとせ いつきてみても干鰯場は あき間もすき間も更になし」また、この十字流の大島側の一部には、江戸時代「釜屋」といわれる鋳物工場があった。通称釜六、釜七といわれた、釜屋六右衛門、七右衛門は出生地近江から寛永年間(一六二四~四四)江戸へ出てきて、鍋、釜、仏像、鐘などを製造した。この事から、釜屋沿いの横十間堀は「釜屋堀」の通称で呼ばれ、切絵図では「釜座」となっている。