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月睡蓮

熾天使 ④

2022.04.15 19:45

4.

 彼女の母からの知らせを受けた私は献花を携えて彼女の実家を訪れた。遺体の損傷が激しかったのもあり、葬儀は身内だけで済ませたと知らされた。母親が云うには彼女の死は結局、事故として処理されたらしい。自殺の決め手となる遺書やそれらしい証言が周囲の人間から得られなかったのがその理由。彼女の恋人であった私のところにも事情聴取として警察から連絡が来た。殆ど形式的なそれに淡々と答えたのは記憶しているが、実際に何を喋ったものか憶えていない。

 彼女は白い箱の中にひっそりと収まっていた。真新しい線香が焚かれ、位牌が並び、遺影の中で彼女は飛び切り明るく笑っていた。その写真には覚えがあった。二年前、一緒に旅行へ行った時のものであった。まだ満ち足りて幸福だったあの頃。

 私は神妙な気持ちで彼女に花を捧げ、手を合わせた。そうしながら謝罪の言葉を胸中で繰り返した。――今更もう遅すぎるけれど。

 私は彼女が死んでから塞ぎがちになった。彼女が亡くなった悲しみ、喪失感と云うよりは、強い罪悪感から気鬱になった。彼女の死を一度でも願ったこと、彼女を冷たくあしらったこと、大事にしなかったこと、きちんと向き合わなかったこと……。そして毎晩見る酷い悪夢が憂鬱感に拍車をかけた。

 雑踏が溢れかえる朝の駅のプラットフォーム。彼女は鞄を抱えて白線ぎりぎりの位置に立って俯いていた。誰も彼女に関心を持っていなかった。彼女を見ていなかった。電車の到着時刻が迫るにつれて乗客がプラットフォームを埋め尽くしてゆく。彼女は手にしていたスマートフォンを外套のポケットにしまうと電車がやって来る方向を覗き込むようにして見た。まもなく電車が到着するというアナウンスが流れる。ざわめきに満ちた朝の空気が一瞬、緊張する。電車の轟音が近付いて来る。彼女は少しだけ白線から離れる。電車の先頭がプラットフォームに突入する。刹那、彼女のすぐ後ろを黒い影が素早く掠めた。次の瞬間、彼女の躰が宙を舞った。彼女の躰がスローモーションのようにゆっくりと電車の車両の前に躍り出る。時間が引き延ばされ、緩慢になり、一時停止し、再び六十進法を取り戻して時計の針が進む。彼女の躰は電車に当たり、砕けた。激しい衝突音と轟音、プラットフォームからは耳を劈くような悲鳴。血飛沫が先頭車両の窓を汚す。電車は徐々に減速しながらも線路に落ちた肉体を轢いて無惨にバラバラに解体してゆく。頭が酷たらしく割れた彼女は眼窩から零れた眼球で天を睨んでいた。息絶えた視線の先には一羽の大鴉が旋回し、禍々しい啼き聲を発してやがて遠くに飛び去っていく……。

 このような夢を毎晩のように見ては魘されて飛び起きた。彼女の死の瞬間を目撃していないのにも拘わらず、夢の中の映像は鮮明でリアルだった。否、その瞬間を見ていないからこそ、妙に想像力が逞しくなって奇妙なほど現実味を帯びた夢を見るのかもしれなかった。

 夢の中で何度も何度も彼女が死ぬ瞬間が再現され、覚醒時でもふとした瞬間にその映像が目の前をちらつくようなこともあった。どこまでも追いかけて来る悪夢はそれこそ「お前のせいで彼女は死んだ」と云わんばかりであった。

 市販の睡眠導入剤を酒で流し込んでも効き目は芳しくなかった。浅い睡りを繰り返し、睡眠不足のために睡りを欲しながら、睡るのが怖い――一種の恐慌状態に陥っていた。朝を憎みながら夜を恐れていた。

 そんなふうにして過ごしていた或る日、友人から連絡があった。久し振りに逢わないかとの誘い。他にも数人誘っているという。飲み会である。あまり人に逢いたい気分でもなかったが、気分転換には良いかもしれないと思い直して、了承した。

 約束の時間に指定の店に行ってみると既に友人らは集まっていて、私の顔を見るなり「森川、久し振り」口々に云った。私は空いていた席に腰を落ち着けて愛想笑いをしながら応じた。

 それぞれ酒や料理を頼み、乾杯をした後には当然のように友人達から労わりの言葉をかけられた。皆、亡くなった彼女とは顔見知りであった。一様に早すぎる彼女の死を悼み、私にもお悔やみを告げた。私は酒を飲みながら友人達の親切心に感謝しつつも、いつまでも彼女について話題にされるが苦痛だった。心の奥底で自責の念が疼いていたから。無論、友人達は私が彼女の死を願ったことなど露程にも知らない。彼女との思い出話は私を責め苛んだ。が、私は只追従笑いを浮かべて酒を飲んでいた。そのうちに話題は友人等個々の近況報告やネット上で話題になっている映画やドラマの話に移ろってゆく。私は適当に聞き流しながら、料理を突いていた。

 酒杯を重ね、酔いが回り、料理を粗方食べた頃、そう云えば――思い出したように瀬山が呟いた。

「俺、あの時――何か変なものを見たんだよね」

「変なもの? あの時?」

「何々? お得意の幽霊でも見たの?」

「確か瀬山は霊感があるんだっけ?」

「霊感って本当かなあ。単なる気のせいとかじゃないの?」

「本当に変なものを見たんだよ。信じて貰えないかもしれないけど。――それで。菊池が亡くなったって云う日」

「え? 何、美和ちゃん?」

 一瞬、沈黙が落ちる。

「――美和が、どうかしたの?」

 慄えそうになる手を膝の上できつく拳を握って話の先を促すと瀬山は少々ばつが悪そうに視線を彷徨わせる。少しの間躊躇うふうであったが、再度訊ねると彼は徐に口を開いた。

「あ、いや、菊池が亡くなった日なんだけど、偶々駅のホームで見かけたんだよ。電車がそろそろ来そうな時間で。アナウンスが流れてた。声を掛けようと思ったら、彼女の背後に黒い影が立ってて。何て云うのかな、大きな鴉みたいな。翼みたいなものがって、明らかに人間じゃなかった。でも皆気が付いてなくて。勿論、菊池も。だから何か変な霊――あれが実際何なのかは俺も判らないけど。何となく良くない気がしたから慌てて菊池に近寄ろうとしたら、突然菊池の躰が線路に飛び出して……俺にはあの黒い影が菊池を突き落としたように見えたんだ。その後はもう凄いパニックで。その翼のある影はいつの間にか消えてた。後から警察にも簡単に事情聴取を受けたけど、その時に彼女は誰かに押されたかもしれないって伝えたんだ。でも警察側はそう判断はしなかったみたいだね。やっぱりあれは防犯カメラに映ってなかったのかな」

 私は彼の言葉を聞いて呆然となった。血の気が引いてゆく。

 黒い影。

 大鴉の如き翼。

 ――真逆。

「森川君、大丈夫? 顔色が真っ青だよ」

「悪い、俺がこんな話をしたから……」

「いや、僕はもう帰るよ。またそのうち逢おう」

 財布から紙幣を取り出してテーブルに置くと、私はその場から逃げるように外へ飛び出した。

 速足で歩く。蟀谷が脈拍に合わせて痛んだ。心臓が狂ったように鳴っていた。

 ――真逆真逆真逆真逆真逆。

 あり得ないと思う反面、瀬山が語った翼のある黒い影はルシフェルなのではないかと直感的に思った。彼女が死ねば良いと願ったのをルシフェルが実行したとしたら?

 ――時に天使は人間の願いを聞き届ける。

 脳裏にルシフェルの輝く蒼い双眸が閃く。表情の乏しい白い貌と彼女の遺影で見せていた笑顔が重なり合い、混じり合って、やがてあの悪夢へと形を変えてゆく。ルシフェルが彼女の背を押し、小柄な躰がスローモーションのようにゆっくりと電車の車両の前に躍り出る。時間が引き延ばされ、緩慢になり、一時停止し、再び六十進法を取り戻して時計の針が進む。彼女の躰は電車に当たり、砕けた。激しい衝突音と轟音、プラットフォームからは耳を劈くような悲鳴。血飛沫が先頭車両の窓を汚す。電車は徐々に減速しながらも線路に落ちた肉体を轢いて無惨にバラバラに解体してゆく。頭が酷たらしく割れた彼女は眼窩から零れた眼球で天を睨んでいた。息絶えた視線の先には黒い天使が禍々しい笑みを唇に刷いて彼方に飛び去っていく――堪らず道端の隅に蹲って嘔吐した。嘔吐く苦しさに涙が滲む。再び酸っぱいものが込み上げて来て胃の中のものを土瀝青にぶちまけた。吐くものが無くなっても吐き気は容易に治まらなかった。土瀝青を汚す吐瀉物が彼女の血や肉片、脳漿に錯覚し、新たな吐き気を連れてくる。私は長い間、夜道に蹲って胃液を吐き続けた。

 自宅に帰るとルシフェルが微笑を浮かべて出迎えた。ルシフェルの顔を見た瞬間、怒りが猛然と肚の底から突き上げた。乱暴にルシフェルの胸倉を掴んで力任せに頬を打った。

「お前が……お前が美和を殺したんだろう⁉ 駅のホームから突き落としたんだろう⁉」

 ルシフェルは無表情で私を見る。蒼い眸はどこまでも冷たく透き通って輝いていた。真っ直ぐに向けられる尋常ならざる眼眸しに怖気が立って掴んだ胸倉を解放した。するとルシフェルは眉一つ動かさず、静かに私を指さした。微かに薄い唇が動く。

 ――アナタガノゾンダコト。

「僕のせいだって云うのか⁉ 違う! 僕じゃない! お前のせいだ! お前が美和を殺したんだ!」

 私は叫びながらルシフェルを拳で殴打した。床に引き倒して細い首を掴み、両手で締め上げる。ルシフェルは抵抗しなかった。それが猶更怒りを煽った。満身の力を込めて首を絞めながら、頭を床に叩き付ける。何度も何度も。そうしているうちに残忍な高揚感が私を包み込む。加虐が加速する。頭を打ち付ける鈍い音が響き渡る。それでもルシフェルは無抵抗であった。

「お前も死ね! 死んでしまえ! 死ね死ね死ね死ね死ね!」

 絶叫しながら、汗を流しながら、涙を流しながら、笑いながら、ルシフェルを痛めつけた。だが黒い悪魔は少しも損なわれることはなかった。私の体力の方が先に尽きてしまった。首を縛めていた手を緩めるとルシフェルは唇の端を吊り上げて嗤った。と、ふっと目の前から悪魔の姿が掻き消える。悪魔を探して視線を彷徨わせるとリビングルームの向こう側――ベランダの外に大きな翼を広げて立っていた。満月にルシフェルの表情は暗く窺えなかったが、只見開かれた蒼い双眸だけが強く輝いていた。

「待て!」

 私はルシフェルを追ってベランダに出る。天へ飛び立とうする悪魔を捕まえようと手をのばした瞬間、躰が大きく傾いだ。世界が逆さまになる。あっと思った時には遅かった。私は地面に向かって墜落してゆく。時間が引き延ばされ、緩慢になり、一時停止し、再び六十進法を取り戻して時計の針が進む。私は落下していく。頭上から蒼い眸が無慈悲に見詰めている。私の死ぬる瞬間を。地面に躰を叩き付けられて砕ける瞬間を。

  ――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

昔在し、今在し、後来りたまふ主たる全能の神

 言葉は重なり合い、残響が乱反射し、玲瓏とした旋律を生み出す。荘厳な賛美歌の如く耳の奥で、脳を揺るがすように鳴り響いた。

 最後に見たルシフェルはこの上なく美しく微笑んでいた。

 

 自殺日和の上々天気。

 死のエーテルが上空に煌めいている昼下がり。

 土瀝青(アスファルト)に広げた赫(あか)い翼の死天使は眼窩から零れた眼球で一心に天を睨んでいた。

(了)