帰り花 ③
如月にしては暖かい日であった。うらうらと雲一つない蒼天から日光が降り注ぎ、どこからか忍び込んだ毛並みの白い野良猫が庭先に描かれた陽だまりの中で目を細めて微睡んでいた。
天へ伸びる庭木の梢は寒々としていたが、陽気に誘われるように枝に連なる蕾はふっくらと身を孕ませて、日増しに春へと移ろうてゆくのを告げていた。時折吹く風は真冬のそれであったが、微風に乗って仄かに漂う湿った土の香りは清明の頃を思わせた。
桐子は葡萄茶(えびちゃ)色のセーターに年老いて小さくなった痩身を埋(うず)めるようにして縁先に座ってうつらうつらしていた。
数日前から風邪をひいてここ何日か床に臥せっていたのだが、今日になって漸く起き上がれるようになったのだ。幾ら暖かいとはいえ、病み上がりに真冬の冷気は躰に毒だと縁先で日向ぼっこしている桐子を、同居している息子の嫁――妙子は口煩く諫めたが、桐子は厚着をしていれば大丈夫だとして聞き入れなかった。何日も閉め切った部屋でじっと寝ていたので外の空気に当たりたかったのだ。年寄は頑固で困ると妙子は零しながら、桐子に留守を頼んで先刻、買い物に出かけて行った。孫の正之も今時分は学校に行っていていない。息子も仕事で不在である。家には桐子独りであった。静かな冬日の午後である。
衰えた膚を撫でる冷えた外気は清々しく、病の残滓を洗い流すようだった。桐子は薄く睫毛を伏せて温(ぬく)い陽光に身を浸していた。と、ちらりと白いものが翻るのを眼裏(まなうら)に――目の端に捉えてふと顔を上げた。桐子に背を向けて庭木の前に人が立っている。編み込んだ長い髪に結ばれている藤色のリボンが繻子の光沢を帯びて柔い風に揺れる。紺色のスカート襞、セーラー服の襟に走る白線、白い靴下、光に照る靴先。桐子は僅かに振り返って此方を見た――微かに笑った気がした。が、陽射しの眩しさに年老いた眼が白く眩んで定かではない。桐子は庭木の前に佇む人物を良く見ようとして眸を細めた。しかし像は上手く結ばない。焦点が合ったと思ったら、忽ち輪郭が融解してしまう。眇めた双眸は再び開くことを拒む。目蓋が意に反して閉じようとする。落ち込んでゆく意識に藤色の繻子のリボンが螺旋を描き、桐子を遠くへ連れ去ろうとする。逆回りする時計の針と柱時計の振り子がカチカチと音を鳴らして、耳元で唸る風が激しく逆巻く。どこかへ落下してゆくような浮遊感。水の中へ沈んでいくような曖昧な感覚に四肢が萎えて弛緩する。瞬きひとつすらできない。息が詰まって苦しい。ゆらゆら。流れてゆく。清い水音。遠くで不如帰の囀り。ゆらゆら。瞳の表面を滑る空の色。茜色。一瞬の夕焼け。夜が来る。流れてゆく。ゆらゆらと。風に囁き交わす花群れ。夥しい数の真っ赤な彼岸花。あらゆる色彩が瞳の上を過ぎてゆく。ゆっくりと瞬きをすると辺りは闇に包まれていた。桐子は恐々と手探りで歩む。心細い思いで歩き続けると不意に声がした。
「桐子」
俯けていた顔を上げると突然視野が明るく拓けた。ひらりと宙を舞うものがある。眩しさのあまり思わず顔を顰めた。正面に向けた視線の先に白い和服姿の人物が立っていた。その人は漆黒の髪を長く垂らし、爛漫と咲き乱れる桜の樹の下に佇立していた。白い貌(かんばせ)に淡く笑みを浮かべて。
「――春さん」
片時も忘れなかった、懐かしい名を口にした途端、両の眼から熱いものが溢れ出た。桐子は涙が流れるままに、紺色のスカートを翻して桜の下へと駆け寄り、春の懐に飛び込むように抱き着いた。春は眸を見開いた後、破顔して少女の躰を抱き返した。桐子は春の胸元に顔を埋(うず)めながら嗚咽する。ずっと逢いたかったのだと、今までどうしていたのかと、云いたいことは幾らでもあったが、言葉にならず、全ては落涙となって消えていく。春は薄く眸を伏せて宥めるように桐子の細い背を抱いた。その手付きは慈愛に満ちていた。
「桐子を待っていたよ」
「私も待っていたわ。ずっとずっと、あなたを待っていた。逢いたかった」
「私も桐子に逢いたかった。――もう泣かないで」
桐子が顔を上げると白い手が伸びてきて、涙を優しく拭う。それから春は顔を寄せて乙女の唇に淡く口付けた。再会の接吻は一度ほどけて、もう一度。柔らかな熱を享受し合うそれは海の味がした。
春は秀でた額をこつりと合わせると深い夜の眸を潤ませて美しく微笑した。その微笑みも酷く懐かしく、桐子の胸を、心の臓を、慄(ふる)わせる。新たに涙が滲むのをどうにか堪えて桐子も微笑み返した。
風が吹き渡り、桜の梢をざわめかせて揺らす。桐子は頭上で咲く桜を仰ぎ見た。春も振り返って満開の桜花を見遣る。
「桐子。私は自分の名前を思い出したよ」
「本当? 何て仰るの?」
すると春は桜の樹を指さした。
「カムアタカアシツヒメ」
――神吾田鹿葦津姫。
神木である桜の樹に宿る聖なる御霊の名前。気高く、儚く、凄艶なまでに美しい桜の神名。
「それが、春さんの本当の名前?」
「そう。でもね、桐子が私につけてくれた名前が好きだよ。――私は桐子がくれた名前で呼ばれたい」
「春さん」
神吾田鹿葦津姫――春は嬉しそうに莞爾した。細められた眼尻には小さな雫が光っていた。
二人を祝福するように薄紅色の花は静かに花弁を散らす。ゆっくりと舞い落ちるそれは陽射しを受けて煌めくようであった。桐子は右手を伸べて花弁を掌に受ける。淡雪のように軽いそれは仄かに馨る。春の馨り。懐かしく、慕わしい、愛しい人の匂い。
春は宙に差し出された桐子の手を掴んで握った。
「桐子。さあ、行こう」
「どこへ?」
「――常世へ」
永遠不変の世界へ。海の遥か彼方にある場所へ。彼岸へ。
桐子は春の手を握り返して、歩き出す。繋いだ手はもう二度とほどけることがないのだと確信して。
春風に煽られて地面に散った花弁が螺旋を描いて空へ舞う。夥しい葩(はなびら)が蒼穹へと巻き上げられていく。碧い天(そら)一面、桜色に染め抜かれた。
桐子は縁先に座ったまま二つの背中を見送っていた。次第に薄らいでゆく二人の姿が花吹雪に紛れて見えなくなる。桜に鎖された視界は色彩を喪い、糸がふっつりと切れるように闇に転じた。
庭先で不如帰が一聲啼(な)いて、天へと羽搏(はばた)いていく。しかしその囀りは遂に桐子の耳に届くことはなかった。
(了)