葩の泪
友人が死んだ。不意の凶報は悲しみよりも驚きの方が勝った。それは友が遠方にあり、直接逢うのが年に数回という関係だったからかもしれない。或いは単純に死という身近にある現象でありながら、不可解であることが現実感を欠いているせいかもしれなかった。とにもかくにも、友人は死んでしまった。受け取った電報には死因が記されていた。曰く、心臓発作、と。ふと友人の笑顔が脳裏を翻る。最後に逢ったのは確か秋の終わりだったはずだ。今は花が麗しく綻ぶ優しい季節である。
私は葬儀に参列するために数日休暇を取り、必要なものを鞄に詰めて亡き友が待つ地へと旅立った。
友人が棲まうのは鄙びた村であった。列車も一時間に一本通れば良い方で、理由は知れないが時刻表通りに運行されるのは稀らしく、大抵いつも遅れている。生前友人は「君が棲んでいる都会と時間軸がまるきり違うのだろうね。象と鼠みたいに」朗らかに笑って待ち合わせの時間に遅れても悪びれもしなかった。何事にも呑気であった彼だ。死に急ぐこともなかっただろうに全くの不幸だ――列車に揺られながら、見慣れた都心の風景から手付かずの新緑が眩しい景色へと移り変わる車窓をぼんやりと眺めた。
やあ善く来たね――窓に映る己の顔に、彼の無垢な微笑が重なって見えた気がした。酷く懐かしかった。
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村に着いた翌日が葬儀だった。
友は胸の上で手を組み、静謐に瞼を閉じて棺の中に横たわっていた。死に顔は予想していたよりも穏やかで恰も昼寝をしているかのようだ。名を呼んで揺り起こせば「ああ善く寝たよ」小さく欠伸をしながら目を覚ましそうだった。もう二度と彼が目を開けることはないのだと俄かには信じられなかった。まるきり嘘のようで。
彼の親族らしき婦人や同年代の友人、近所に住む人々、仕事仲間と思しき紳士達は喪服に身を包んで皆一様に悲しみに蒼褪め、口元を引き結び、或いは色のない唇を戦慄かせて嘆いてはハンカチで目許を拭っていた。
そんな黒く喪に服す中、場違いのように眞白いドレスを纏った年若い乙女が四人混じっていた。彼女達は神に祝福された花嫁の如く頭から足の先まで眸の底が痛む程の純白さで、美しく薔薇色に化粧をしていた。華美な装いの彼女達を咎める者は誰もおらず、寧ろ平然とした風情で気にも留めている様子はなかった。彼女達の存在に当惑しているのは余所者の私独りだけだ。
一体彼女達は何者なのかと注視していると、白き乙女達は参列者より前に出、棺に縋るように取り囲むと、芝居がかった身振りで嗚咽を洩らした。
するとどうであろう。彼女達の両の眼からはらりと葩(はなびら)が一片散ったのである。穢れのない雪白の葩は乙女の澄んだ瞳からはらはらと零れ、死者の餞として棺の中へ、死後組み合わされた彼の手の上へと落ちて積もってゆく。
教会内には司祭が聖書を朗読する声が朗々と響き、参列者達の啜り泣く声が重たく落ちて、乙女達の葩の泪(なみだ)が降り積もる。
別れの儀式は何処までも神聖で、粛然としていた。私の心裡までもが浄化されてゆくようだった。全ては、神の元へ。
彼ともこれでお別れなのだ――滲む視界に安らかな友の顔を映しながら、私は純白の乙女達が散らす葩を不思議な気持ちで目の端に捉えていた。
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葬儀を終えた後、真っ直ぐ宿に戻る気になれず、私は村唯一の酒場に足を伸ばした。たった今別れを済ませてきた友人とこの酒場で洋杯を傾けたのは夏の頃だった。この村は夏が一等、美しいのだ。眸に沁み入る緑は涼やかで繁茂する草花が滴る様は貴石が煌めくよう。都市部と比べて生活するには何かと不便が多い辺鄙な寒村であるが、友人が此処を離れたがらなかったのも偏に夏が美しかったからだ。かつて彼に何度か移住を勧められたのを思い出す。それ程に彼はこの村の夏を愛していた。
私が酒場の扉を潜ると店主がやや慌てた様子で出迎えてくれた。彼も先の葬儀に参列していたのだ。戻って来たばかりなのだろう、髭を生やした頬に疲労色が薄らと滲んでいた。お互いに顔を見合わせて「どうも」軽く会釈する。些か気拙い愛想笑いを浮かべて。
カウンターに独り腰掛けて蒸留酒を注文する。自分の分と友人の分と。
私は舐めるように酒を味わった。時折、隣の空席を眺めながら。そうしているうちに、もう彼はいないのだと強烈な喪失感に襲われた。やっと彼の死を実感した瞬間だった。記憶の中で朗らかに笑う友人が今やとても遠かった。それで善いのだと思った。
洋杯(グラス)が空になる頃、ずっと気になっていたことを店主に訊ねた。
「あの娘達は一体、何者なのです? 白いドレスを着ていたあの四人の……」
今思い返しても不思議だった。両の眼から葩が散り落ちるなど。参列者達は平然としていたけれど。すると店主は「ああ、あんたは見るのが初めてですかい」独り合点して磨いていた洋杯をカウンターの上に置く。
「彼女達は葩の泣き女って云いましてね。まあ、これは通称で正式な呼び方じゃないんだが――そう、彼女達は特別な存在でね、葬儀があるたびにああして死者のために葩の泪を落として弔うんですよ」
「特別ねえ。一体どうやって泣き女になるんです?」
「それは神のみぞ知るってやつですわ。なりたくてなれるもんじゃない。この村では昔からそう伝わっている話でね。神に選ばれた者だけがなれる、神聖な存在なんですよ。彼女達が白い服を身に纏っているのも死は悲しい終わりではなく、神のもとで安らぎを得たことを祝福するためだとね。葩の泪も、そう」
葩の色も白かったでしょうと店主は云う。確かに眸から落ちるそれは眞白だった。
「彼女達は普通に目が見えているのですか?」
「そりゃあ、そうでしょう。ああ、でも。泣き女の役目を終えると失明しちまうらしい」
「そう――なのですか?」
ひやりと肚の底が冷えた。思わず目を見開いて店主を凝視する。
葩の泪を流し続けた後、花が枯れてしまうように目が、見えなくなる。
「それでは随分――」
「可哀想だと思うでしょう。不便だと思うでしょう。でも違うんですよ。彼女達にとって役目を立派に終えたことは、視力を失ったことは名誉の証なんです。尊敬こそすれ、誰も彼女達を哀れんだりしない。考えてご覧なさいさいよ。誰かのために、見ず知らずの人のために、美しい泪を流す。たとえ神に選ばれ、課せられた運命だとしても、人のために泪するのは崇高な行為じゃあないですか。誰かを想って泣くという行為は愛がなければ難しいですからねえ」
店主はしみじみとした口調で告げる。中身が満たされたまま空席に置かれた洋杯に向ける眼眸(まなざ)しは少しだけ潤んでいるようだった。
私は勘定を払って酒場を後にした。
窒息する程に夜闇が濃かった。先の見通しが利かない本物の夜はこんなにも暗いものなのかと心許なかった。この道を夜歩く時、必ず隣には彼がいた。彼はどんな気分で独り夜道を歩んでいたのだろう。問うても、答えはなく。
ふと天を仰ぐと一際強く輝く星と目が合った。その瞬間、左眼から零れ落ちたものがあった。怪訝に思って瞬きすると白い欠片がはらりと落ちた。小さな葩だった。
――ああ、私は。
その資格があるのかどうか判らない。
だけれども選ばれたと云うのなら、それは恐らく。
彼が私を選んだのだ。
私は独り夜道に立って声を上げて泣いた。
彼を想いながら。
葩の泪を喪失の夜に散らして。
(了)