「時間」
2022.04.16 15:26
時間について調べたい。時間というものを特に考えようとしなくても、時間について通俗的な了解がある。一律に流れて過ぎ去っていくものとしての時間の概念が共有されているように思われる。時間という専門科目はないのにもかかわらず、すでに当然わかっているものとして、安易に語られている。これはまるで空気がありふれているから、という理由により無料で吸うことができるのに似ている。時間は私たちにとって余りに親密すぎて議論の対象にすらならない。だが時間について本質を知っている人は恐らくいない。時間に本質なんてないものだと思っている。人は忙しいというが、この言説のなかに明らかに時間性が含まれている。時間性を考慮しているからこそ忙しいと言うことができる。つまり忙しいとは時間的に忙しいということだ。だが時間の考慮を前提としているのにも拘らず、その時間について厳密に知られてはいない。
日常的に時間を考慮しているのに、その本質は知られていない。順序や先と後についても時間性がすでに内包されている。時間という概念をはじめから理解しているかのようである。仮に時間という概念を理解しているならば、いったいどのようにして理解まで漕ぎつけたのであろうか。日常生活としての経験からであろうか。もしそうだとしてそのような経験的に知られている時間を、ほんとうに時間として認めてしまってもいいのか。あたりまえすぎて議論の対象にならないものこそ時間の正体ではないだろうか。あたりまえをあたりまえという理由で調べることなしに、時間の真実としてしまってもいいのか。基礎の基礎であるからこそ、第一優先として慎重に考えられるべきものではないのか。時間が基礎の基礎となっているのなら尚更、その定義を明確にしておくべきではないのか。慣習として使われている時間を本質的な時間の定義として使うことはできない。その上に築かれるピラミッドは幻想となってしまうだろうから。
人が時間を厳密に知るより以前に、すでに時間的観念を使用してしまっているという事実は、人が時間的な性格を有しているということになるのではないか。時間に対して人間的な考慮が働くからこそ時間を時間と呼ぶことができる。時間をあえて主題化しなくとも時間を了解しているのは、人間の存在が時間的性格をもっているからではないか。つまり人間の存在が時間を規定していることになるだろう。そうすると奇妙な結論が導かれる。それは時間と人間存在を切り離すことは不可能という結論がこれである。さらに時間とは人間的な何かであるということにもなる。独立した時間は(すなわち人間存在と無縁の)ないことになり、一般常識的な時間の概念とはだいぶ異なってしまう。ふつう人間とは関係なく客観的に時間があるように思われているし、時間になんの人間味も見いだすことはできない。
時間についてどうアプローチしたらいいのかわからない。アプローチする私がすでに時間を持っている。時間を前提としなければ何も始まらない。〈始まる〉という言葉に時間性が含まれてしまっている。時間性を無視するならば〈始まる〉という語は意味を失う。また時間性が先にあるという場合、この〈先〉という語にあっても時間性なしに意味をなさない。時間的に先と後があるからだ。このように時間の正体は謎であり解明が難しい。時間を考えようとすれば、その時間を使いながら考えざるを得ないというように。時間に近づこうとすれば、時間にもまた近づかれるというように。