君が吹く花霞
Good night Judas.現行未通過❌
大分に温くなった風が頬を撫でる。
燦々と日の照る日中であれば、春らしい陽気で…とも称せたであろうが、今の空は茜色。
日は長くなったが、暮れゆく空は着実に夜の帳を近づけて、風にも夜の匂いを纏わせ始める。
一片、白い花びらが過ぎ去っていくのを視界の端に留め、振り向けば其処には見知った顔。
穏やかな瞳が眼鏡の奥に覗く、細身の彼は見つかったと言わんばかりの苦笑をして、だがそれも当然といった様子で隣に並び、同じ階段を登り始めた。
一言二言交わしながら石畳を登りきれば、そこは街を見下ろす丘の上で、古ぼけたベンチに申し訳程度の屋根が拵えられた、広場になっていた。
日暮れ時という時間もあってかひと気はない、ただ二人を覗いて。
広場へ踏み出した革靴の音に気づいてか、屋根の下で座っていた二人の男が振り返った。
一人は細い黒髪を撫で付けた無愛想な男で、もう一人は好奇心の多そうな大きな目にメガネを掛けた、大きな体の男。
もっとも今はその大きな目も、少しばかり不安に揺らいでいるようだったが。
ぽつり、ぽつりと白い花びらが舞っている。
夜闇にあっては攫われてしまいそうな、薄い花弁。
ああそうだ、もうすぐ桜の季節になる。
桜が咲く頃に、今度は酒を持ってこようと提案し、幾ばくかの笑いを持って受け入れられる。
それぞれに家路につこうと立ち上がった時にはすっかり空は暗くなっていたが、大きな瞳に根ざしていた不安は、もう鳴りを潜めていた。
桜が咲いたらまた来よう、何度も、何度も。
この場所に―――
朝から冷たい雨が降り注いでいた。
厚い雲に覆われた空はどんよりとして暗く、自然と溜息が溢れる。
雨で気分が重くなるといえば年の割にセンチメンタルなと笑われるかもしれない。
少なくとも、最初の元妻には強かに背中を叩かれそうだ。
他愛もない昔の戯言を思い出しながら、鬼城は一本のタバコを取り出した。
手袋越しでも慣れたその感触。
吸口を撫でで唇に挟み込み、当時背伸びして購入した、妙に洒落めかした海外ブランドのジッポライターで火をつける。
青みがかったダークグレーの髪と真っ黒の瞳。
じろりとにらみ上げれば妙に迫力のあるつり上がったその目は、一般企業の勤め人であればそれなりに苦労したのではないかと懸念される。
だが鬼城は刑事だった。
私生活においてはさておき、その鋭い眼光は犯人を追い詰めるのにはひどく有効で、重宝することになる。
私生活はさておき、だ。
ここ最近はチームで一つの麻薬取引を追っていた。
暴力団絡みのこの一件を、一課である鬼城たちが追うのは筋ではないかもしれない。
だが一口に麻薬と言っても扱うものは多種多様で、さらにいくらでも余罪が出そうな、煩雑かつ無節操な犯罪集団が相手だったのだ。
若く有能な班長、室井によって統率された彼らの班にこの件が一任されたのは、事実である。
鬼城は班長である室井よりも年嵩で、歴だけでいえば先輩に当たるがそれらしい振る舞いをしたことはない。
いや、食事を奢るだとか、経験を語るだとか、そんな有り体な付き合いなら当然してきたが…クレバーとは到底言えず、とにかく現場で駆けずり回るのが得意であった鬼城だ、見習うような立派な先輩ではなかったのが確実ということ。
だが、刑事としてはまだ若い室井が班長に抜擢され、その班員の中に自身が選ばれたことを、鬼城はとても誇らしく思っていた。
自分なりのやり方で、サポートしてやってほしいと、そのような期待をかけられていると自負したのだ、今でも間違いではないと思っている。
タバコの煙が立ち上り、傘の中で霧散して雨で湿気った空気の中に消えていく。
香りと、舌に残る苦味が、ほんの束の間だけ懐古に浸る時間を作り出してくれる、そんな時間が好きだった。
…と、ポケットの中で携帯のバイブが激しく振動したのに気づく。
吸いかけのタバコを足元の水たまりに浸けながら応答すれば、待っていた連絡に力強く応え、走り出した。
真壁という容疑者を追っている。
暴力団絡みで麻薬を売りさばいており、それ以外にも呆れるほどに犯罪行為を繰り返した、刑事にとっては憎らしい悪党で、取引の情報を掴み待機していたのだ。
奴を監視し現場を押さえ、近くで待機した別の刑事が現行犯で逮捕、任意同行を求める。
もしも逃げ出せば応援要請。
鬼城は誰よりも駆けることに、更には荒事に慣れていたため、少し離れた場所…逃げてくるならこのルートしかない、その場所から奴を追い詰めるために挟み込むように駆け付けるのだ。
雨の中いっそ邪魔だと傘を放り捨て、走る。
冷たい雨が額を、頬を打ち、ヘアスタイルが崩れる。
だが今に、あの角を曲がれば驚愕におののいた真壁と鉢合わせするに違いない。
追い詰められたと悟って逆上した奴の手首を捻り上げ、地面に叩きつけてやる。
抵抗しようと武器を取り出すなら構わない、必ずその身を拘束し、市民を…仲間を守ってやる、のだと。
角を曲がると其処には赤が広がっていた。
赤、朱、赫、紅……
ザアザアと煩いくらいに打ち付ける雨音。
雨に流れていく赤。
男が二人、倒れていた。
一人は追っていた犯人、真壁。
少し距離があったとて分かる、ポッカリと空いた腹部から滾々と血液を溢れさせて、見開いた目に光はなく、雨が差し込もうとも瞬きの一つもしない。
もう一人は、室井だった。
年下の、上司、この班を率いる最重要な…最も愛された、班長。
いつも無愛想な表情は堅く眉間にシワを寄せ苦悶を浮かべていたが、やはりその身体から止め処なくあふれる赤が、彼の致命傷を告げている。
雨によって流され、広がっていく赤はあまりにも多い。
そして傍にも二人。
一人は室井の傍にしゃがみ、必死で流血を止めようと傷口に手を押し当て、その名前を呼んでいる。
班のブレーンであり、年も近いことから室井との信頼も厚い、東堂だ。
彼は顔を真っ青にし、何事かを囁いていた。
雨音でよく聞こえはしなかったが、何かを決断したようなはっきりした声音であったことだけは分かった。
もう一人は雨と、広がる赤に靴を浸し、呆然と立ち尽くしていた班員の中の最年少、青砥。
手には血の滴るナイフ、未開いた目は空虚と絶望が浮かんでいて、特に尊敬していた室井を見下ろしているように見えるが、何も視界に入っていないのではと言うほど微動だにしない。
ただ小刻みに震える肩が、この状況を、理解させた。
―――プツリ、と。
鬼城の中で何かが解れ、切れる。
急速に狭まる視界の中に雨と、血の赤、そして地面に蠢く男を見つける。
怯えたように後ずさり、しかし腰が抜けたのか蹲ったままで、何事か喚く男。
びっしょりと雨で重たくなったジャケットの内ポケット手を伸ばす。
掌に感じる冷たさと重み、タバコと同じくらいに手に馴染んだその感触。
銀色のナイフを抜き取って、距離を詰める。
「…なん、で…あんた刑事だろう!?」
「た、たすけ…!!!死にたくない!!!!」
「死にたくない…お願いだ、殺さないで……!」
「…事件には、加害者と、被害者が必要なんだ。」
一閃。
冷たい雨の中、温かく、鉄臭い赤が吹き上がる。
ぐっしょりと濡れて重たくなったスーツも、頬に張り付いた髪も、肉に沈み込んだナイフの妙にリアルな感触も、全てが最上の不快であったが。
それでも。
これで、室井も青砥も助けられる。
その安堵感だけに包まれていた。
その広場は小高い丘になっていて、街を一望することが出来る。
街を見下ろしていると、その一つ一つに暮らしが、命が包まれていることが目に見えるようで、己が守っていくのだと勇気が湧くのだ。
ベンチの傍に一本だけそびえる桜の大木もよい。
桜は人の気持ちを安らげてくれる。
どんな不安も、後悔も、優しく掬い上げて寄り添ってくれる。
はじめは一人だった。
それが二人になり、三人になり、四人になった。
時には愚痴を言い合い、時には酒を持ち寄って笑った。
大切な場所だった。
桜が咲いたらまた来よう、何度も、何度も。
この場所に―――