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源法律研修所

以貌取人(いぼうしゅじん)

2022.04.22 03:55

 

 最近、配信されてくる記事によく登場する言葉がある。「ルッキズム」だ。Look(見た目、外見)+ism(主義)=Lookismだそうだ。


 そこで、和歌山大学教育学部准教授(現在、東京理科大学教養教育研究院准教授)西倉実季『「ルッキズム」概念の検討 ー外見にもとづく差別ー』という論文を読んでみた。

 この論文によれば、Lookismが初めて使用さ れたのは、1978年の『ワシントン・ポスト・マガジン』で、太っていると いうだけで尊厳を傷つけられてきたことに抗議行動を 起こした人々による新語だそうだ。


 そして、我が国でルッキズムが社会的に注目されたのは、2020年6月、水原希子(みずはら きこ)氏が「世界で最も美 しい顔100人(The 100 Most Beautiful Faces)」に ノミネートされたことに対して、「自分が知らない間にルッキズム╱外見主義(容姿に よって人を判断する事)の助長に加わってしまってい るかもしれないと思うと困る」、「見た目で人を判断す るのは絶対違うと思うし、そもそも一番美しい人なん て選ぶ事は不可能」、「このランキングによって偏った 美の概念やステレオタイプな考えを広めて欲しくな い」とSNSで異議を述べたことがきっかけだそうだ。


 「水原希子って誰だ?」と思って検索した。父はアメリカ人で、母は韓国人で、自身はアメリカ人のモデルだった。

 昔だったら、「日本人ではないのに日本人名を名乗り、容姿で飯を食っているモデルが自分のことを棚に上げて何を言っているんだ?」と一笑に付されたはずだが、SNSで注目を浴び、毎日新聞などのメディアが取り上げて話題になったということからも、この問題に対する関心の高さが窺える。


 しかし、アメリカ人にアメリカ由来の理論(?)で言われるまでもなく、我が国では、昔から「人を見た目で判断してはならない」、「人は見かけによらぬもの」(人の性質や能力は、うわべだけでは判断できないものだという意味。)と戒められてきた。


 この主題は、昔話にもよく取り上げられている。例えば、昔話の『喜(き)のじいと貧乏神』には、「人を見た目で判断してはならない」という教訓が込められている。


 この点、支那(シナ。chinaの地理的呼称。)でも同様だ。例えば、澹台滅明(だんたい めつめい)、字(あざな)を子羽(しう)という者がいた。子羽は、容貌が醜かったため、孔子は、子羽を愚鈍だと思って弟子に取ることを躊躇(ためら)った。

 ところが、孔子が、代官に出世した弟子の子游(しゆう)に対して、立派な部下を得たかと訊ねたところ、澹台滅明という徳行が優れた人物を得たと答えたことから(『論語』雍也第六12)、孔子は、「貌(ぼう)を以(もっ)て人を取れば、之(これ)を子羽に失す」(容貌で人を評価して、子羽で失敗した。)と述べたそうだ(『史記』張良伝(留侯世家)仲尼弟子列伝)。

 この孔子の失敗談から生まれた四字熟語が「以貌取人(いぼうしゅじん)」(人の賢愚は容姿だけでは判断することができないという意味。)だ。


 『三国志演義』でも、「臥龍(がりょう)」・「伏龍(ふくりょう)」と呼ばれた諸葛孔明(しょかつ こうめい)と並び称せられ、「鳳雛(ほうすう)」と呼ばれた龐統士元(ほうとう しげん)は、魯粛(ろしゅく)の紹介によって呉の孫権に謁見するが、醜い風貌のため、仕官できなかった。

 蜀(しょく)の劉備玄徳(りゅうび げんとく)も、龐統の醜い容貌を見て、なぜ諸葛孔明が推挙するのかが分からず、閑職の地方県令に任命したところ、龐統は、1か月の間仕事をせずに飲んだくれていたため、住民の訴えにより、劉備が張飛(ちょうひ)を派遣したところ、溜まっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまったため、劉備は、龐統のずば抜けた才能と学識に驚き、人を見た目で判断した己の過ちを反省して、龐統を軍師として迎えたというエピソードは、有名だ。



 では、人を見た目で判断することは、絶対に許されないのだろうか。


 私は、そうは思わない。


 確かに、他人を外面だけで差別することは、原則として許されない。子どもは、未熟であるが故に、残酷であって、他人の容姿を嘲(あざけ)るし、残念ながら大人の中にも、馬鹿がいる。


 しかし、合理的な理由があれば、他人を外面だけで判断することが例外的に許されると考えなければ、不都合だ。

 人を外面だけで判断することは絶対に許されないとしたら、例えば、ナイフを振り回している男を警戒することすら許されず、刺されてしまうだろう。

 このような極端な例だけでなく、不潔な人や、マナーや態度の悪い人と関わると不愉快な思いをすることがあるのは事実だ。

 また、容姿端麗であることが求められる仕事もある。


 そもそも超能力者でない限り、他人が何を考えているのか、どのような性格なのかなんて分からないのだから、第一次的には、外面で判断せざるを得ない

 だからこそ洋の東西を問わず、昔から身だしなみ、挨拶、言葉遣い、マナー、エチケットなどが大切にされているわけだ。


 「人を見た目だけで判断するな!」とルッキズムを厳しく糾弾する人たちであっても、例えば、前方から如何にもガラの悪い暴力団員風の男が歩いてきたら、避けるか、又は少なくとも警戒感を抱くはずであり、そうだとすれば、他人を見た目だけで判断しているのだから、ダブルスタンダードだ。

 ルッキズムは絶対に許されないと主張する人たちが、自分の身だしなみを気にしたり、化粧をしたり、髪型や服装や装飾品にこだわっているとしたら、ダブルスタンダードだ。

 

 そうだとすれば、我が国でお為ごかしにルッキズムを差別だと厳しく糾弾している人々の真の狙いは、身だしなみ、挨拶、言葉遣い、マナーなど、誰が作ったかは分からないが、先人たちが試行錯誤しながら形成してきた自然発生的秩序(伝統的価値観)を破壊し、日本を弱体化させることにあると考えられる。

 ルッキズムを糾弾している人々は、人権教徒・9条教信者・フェミニスト・LGBT運動家等と同じ穴の狢(むじな)であり、日本の強みであるこの自然発生的秩序(伝統的価値観)を目の敵にしているからだ。

 

 話を元に戻すと、第一次的に外面で判断したことが間違っている可能性があるから、第二次的には、じっくり観察をして相手の善悪を判断する必要がある


 我が国では、昔から「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」(馬のよしあしは乗ってみなければわからず、人柄のよしあしはつきあってみなければわからない。何事も自分で直接経験してみよということ。『デジタル大辞泉』小学館)と言われているのもそのためだ。


 この点、前述した澹台滅明(だんたい めつめい)で失敗した孔子は、「其(そ)の以(な)す所(ところ)を視(み)、其(そ)の由(よ)る所(ところ)を観(み)、其(そ)の安(やす)んずる所(ところ)を察(さっ)すれば、人(ひと)焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや、人(ひと)焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。」と述べている(『論語』為政第二)。

  つまり、「人の善悪を知るには、まずその人の行為をしらべてみる。もしその人の行いが善であるならば、次にその行為の動機を注意してしらべてみる。もし動機が善であるならば、更に善を楽しんでいるか否かをよくしらべてみる。善を楽しむ人ならば真の善人である。この三つの手段によって、人を観察するならば人は決してその善悪を隠して知らせないようにすることはできない。」(宇野哲人著『論語新釈』(講談社学術文庫)45頁)。



 クレームが殺到したら煩わしいから、伏字にするけど、な〜んか最近は、「◯◯学」と呼ばれるものが増えているが、どれもこれもつくづく「外題学問」(げだいがくもん)だなぁ〜と思う。

 「外題」(げだい)というのは、本の題名のことで、いろいろの書物の題名は知っているが、その内容を知らないうわべだけの学問という意味から、見た目だけは立派だが、中身のない学問のことを「外題学問」という。



 このようなエセ学問によって、いずれ「美人の湯」が糾弾されて、加茂七谷温泉美人の湯条例 (平成14年3月22日条例第3号)や延岡市祝子川温泉美人の湯条例 (平成19年3月31日条例第67号)などが改正を余儀なくされることだろう。。。