Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

EMET

復活節第2主日(C)

2022.04.22 20:30

2022年4月24日  C年 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

第1朗読 使徒言行録 5章12~16節

第2朗読 ヨハネの黙示録 1章9~11a、12~13、17~19節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 弟子たちは、自分たちもイエスのように捕らえられ、殺されるのではないかという恐怖から戸に鍵をかけ、閉じこもっていました。そこに復活したイエスが入ってこられ、彼らの「真ん中」に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。これは、今日の福音で3回繰り返される大切な言葉です。鍵がかかった戸は、不安と恐れ、そして、主を失った悲しみと十字架に向かう主を見捨てて逃げてしまったことへの激しい自責の念によって、固く閉ざされている弟子たちの心を象徴しています。主がご自身を現してくださり、語りかけてくださった言葉によって、弟子たちの心は真の平安で満たされたに違いありません。また、復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとって赦しの体験でもありました。イエスは、ご自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちを責めることなく、イエスが地上で行なってきたことを今度は彼らに託して派遣します。彼らの使命は、まさにイエスが与えてくれた「赦しと愛」の業の実現なのです。

 さて、イエスが現れた時に居合わせなかったトマスは、他の弟子たちの「主を見た」という言葉を信じられません。このことから、「不信のトマス」という不名誉な呼び名がついてしまいましたが、少々気の毒です。他の弟子たちも、イエスの姿を見るまでは信じていなかったのですから。イエスは最初にマグダラのマリアの前に姿を現されましたが、彼らは、マリアの「私は主を見ました」という証言を受け入れることができませんでした。そして、彼女もまた、イエスが現れて、「マリア」と呼びかけてくださったことによって、つまり、イエスの姿を見て復活を信じた一人なのです。

 ヨハネ福音書には、トマスについての記述がいくつか見られます。11章には、ラザロの死と復活についての物語が記されています。イエスが、ラザロを救うために、イエスの命を狙うユダヤ人たちがいるユダヤに向かうと話した時、恐れる弟子たちに向かい、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言います。死ぬことも恐れず、イエスに付き従おうとするトマスの熱い思いが示されています。告別説教と言われている、イエスが十字架につけられる直前に、弟子たちにご自分にこれから起こることを話される場面にもトマスの姿が描かれています。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」(14章4節)というイエスに対し、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」(同5節)と言います。納得できないことがあれば、たとえ主に対してもためらわずに質問を投げかける、まっすぐで正直な性格が見てとれます。しかし、そのトマスも主の十字架に従うことはできませんでした。他の弟子たちと同様に、トマスもイエスが人間の罪のために十字架上で死に、復活する救い主であることを理解してはいなかったのです。トマスは、命を捧げる覚悟があるほどイエスに付き従っているという信仰の手応えを求め、自分が望む形での信仰を貫こうとしていたのではないでしょうか。イエスに従うことによって、信仰と救いの確かさを自分自身の中に見出そうとしていたのです。実は、トマスの姿は、キリスト者が陥りがちなものなのかもしれません。信仰とは、聖書の知識を深めたり、善い行いをしたりすることによって、自分の力で深めていけるものではないのだということに気づかされます。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というのも、信仰の確かさを求めるトマスらしい言葉ですが、これもまた、神の恵みと救いを見ることができない時の私たちの言葉でもあります。弟子たちの言葉を信じることができないトマスに、主は、トマスが不在だった時と同じ仕方で弟子たちの前に姿を現されます。そして、同じように「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。イエスは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と、トマスの気持ちに寄り添われ、ご自身の身体を差し出されます。ギリシア語の原文では、続く、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ということばの前に「そして」という語があることからも、イエスの言葉が叱責ではなく、トマスに真の信仰への道と救いへの道を示してくださっていることがわかります。トマスが、傷に触れたかどうかについての記述はありませんが、それは大きな問題ではないのでしょう。イエスを見捨てたことで自分を責め、罪に塞ぎ込んでいたトマスは、イエスの傷口に自分自身の罪を見ると同時に、主に深く愛され、赦されていることを理解します。イエスの方から、トマスの心の傷に触れてくださったのです。「わたしの主、わたしの神よ。」とは、「信じる者」となったトマスの信仰告白です。トマスは、復活の主を見て信じただけではなく、過越の神秘を理解したのです。

 「見ないのに信じる人は、幸いである。」というイエスのことばは、わたしたちに対する祝福です。使徒たちの時代の後のキリスト者は、皆「見ないで信じる者」です。わたしたちは、復活の主の姿を見てはいませんが、復活のイエスの証人である使徒たちが記した聖書によって信仰に招かれています。イエスは、使徒たちのため、そして、わたしたちのためにも父なる神に祈ってくださいました。「彼ら(使徒たち)のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(17章20節)と。

 イエスが、弟子たちの「真ん中」に立たれたように、わたしたちも、見てはいないけれども共にいてくださるイエスを、自身のブレない軸として真ん中に据えることで、真の平和をもたらすことができますように。

(by, M.P.N.O)