コロナ禍のもと、塾生から塾員へ ・・・ 柴田 興之介さん、卒業そして就職
5回目となる今回は、コロナ禍のもと今春、慶應義塾を無事卒業して金融業界に就職した若手塾員の「卒業のご挨拶」をお届けします。
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柴田でございます。大変ご無沙汰いたしております。
足利でも桜が満開となるなど、穏やかな陽気となってまいりました。
さて、私事で大変恐縮ではございますが、本年3月、慶應義塾大学を無事卒業いたしましたので、この場にてご報告させていただきます。
コロナ禍の中ではありましたが、新築された白亜の日吉記念館において、3月23日に盛大に卒業式が敢行されました。
卒業式において、伊藤塾長からウクライナ危機を基としたスピーチがありました。伊藤塾長は『国際情勢が今までにないレベルで緊迫する中において、「社会の先導者たれ」という慶應義塾の使命を今一度認識し、各々の分野で先導者として活躍して、社会を正しい方向に導くように』と仰っておられました。時代の大変革期であり、激動の時代に社会人となる私にとって、この塾長のスピーチは非常に印象的なものであり、自分達の世代に託された使命の重さを再認識できました。
式当日には、日吉に多くの塾生が集まり、さながらコロナ前のような盛況ぶりでした。
キャンパス内はもちろん、“ひようら”はどのお店も長蛇の列ができていました。
私も友人たちと、約2年ぶりに対面で再開することができ、思い出話やお互いの進路などの話に花が咲きました。コロナ禍において、約2年間キャンパス・ライフを奪われた世代でしたので、卒業式という機会に再び旧友と再会できたことは、非常に感慨深いものがありました。
一方で、今回の卒業式は、私にとって複雑な心境もありました。
3月初旬、私の祖父が急死したのです。つい数週間後に控えた、私の卒業式への参加を楽しみにしていた矢先のことでした。
亡くなるつい2週間前まで、五十部運動公園で一緒に運動をするほど元気だった祖父の急死は、約1ヶ月経った今も未だにショックで、現実を受け止められません。
生前、祖父は唯一の孫である私を幼少期から特に可愛がり、受験勉強などで辛い時も、常に温かく私を励ましてくれました。慶應義塾に合格した際は、誰よりもその合格を喜び、記念に『自我作古』の書を作成してくれました。在学中も、プレゼントした慶應グッズを日常的に身に纏い、早慶戦や三田祭などの学事イベントの際には足繁く東京に通い、孫が塾生であることを周囲に自慢していたそうです。亡くなる直前に帰省した際も、卒業式の話で盛り上がり、「新しくなった日吉記念館を見に行きたいな〜」と言っておりました。その祖父が、卒業式にいないというのは、何とも不思議な感覚であり、同時に受け入れ難い現実を直視する機会にもなりました。「どうして、、、」という虚しさが常に心のどこかにありました。
卒業式当日、足利の自宅では、祖母が卒業式のインターネット中継を流し、祖父の位牌の前で一緒に視聴していたそうです。祖母の機転もあり、当初思い描いていた形とは違ってしまいましたが、祖父に「塾歌」と「慶應讃歌」を聞かせてあげられました。卒業式から数日後には足利に帰省し、祖父に卒業の報告を行うと共に、学位記と卒業写真を仏前にお供えしました。きっと祖父も、私の卒業を祝ってくれていたと思います。
この4月から私は、銀行マンとして東京で働き始めています。現在は新人研修中で、社会人としての基礎を叩き込まれています。最初の配属先は、自身が希望した海外案件を中心に扱う部署に決定しました。
「日本を代表して、グローバルで活躍するビジネスマンとなる」という自身の目標のため、また亡き祖父に立派な姿を見せるためにも、今後とも精進して参る所存でございます。
コロナ禍の中でお会いできる機会が少なくなってしまい、大変残念ではありますが、いつの日か足利で再び皆様とお会いできる時を楽しみにしております。
塾員となった後も、足利三田会の皆様方から、ご指導ご鞭撻を賜れれば幸いです。
長文失礼いたしました。
柴田 興之介
写真・・・(本人提供)
卒業式当日。白亜の日吉記念館前にて。
祖父と共に。書道家でもある祖父が『自我作古』の書を贈ってくれました。
桜咲く三田キャンパス「幻の門」の前にて。