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宗淵寺/願興寺

明楽梁山〜教団近代化を地方にもたらす〜

2021.10.01 10:12

【この記事は、曹洞宗参禅道場の会会報『参禅の道』第75号に、住職が寄稿したものの転載です】


妙義寺の千体地蔵


妙義寺と明楽梁山

萬歳山妙義寺(島根県益田市七尾町)は、文永年間(一説には弘安五年)に臨済宗寺院として開創されましたが、応永一(1394)に国人・益田氏の菩提寺として曹洞宗に改宗し、益田氏十九代・藤兼の庇護を得て、長門・太寧寺の十五世・関翁殊門を中興開山としました。江戸時代には末寺15ヶ寺、塔頭3ヶ寺を有し、録所にも任ぜられました。慶応二(1866)年の石州口での戦い(第二次長州征伐)では、大村益次郎率いる長州軍の本陣が置かれて、明治維新前夜の舞台になるなど、浜田龍雲寺と並ぶ、石見地方随一の名刹です。


今回紹介する明楽梁山師(あきら りょうせん 号は洞屋。明治四十年没)は妙義寺の第二十五世。全国各地から施主を募り発願した「千体地蔵」と呼ばれる仏像群の勧請と、それを納めた堂宇を建立したほか、伽藍山容の整備に注力した功績から、再中興が贈諡されています。

萬歳山妙義寺の山景


実は、この梁山師のご生涯に関する口承や伝記は、さほど多く残されているわけではありません。しかし、断片的ながらその足跡をたどっていくと、うっすらではありますが、新しい時代の風を受けて混迷を切り開こうとする、開明的な地方志士ならぬ「志僧」としての姿が浮かび上がってきました。


梁山と曹洞宗扶宗会

今回、師に注目したきっかけは、川口高風先生がまとめられた「明治期以降曹洞宗人物誌」(「愛知学院大学教養部紀要」所収)で紹介されていた、梁山師が「犬養毅とも親交があり、禅談を交わしていた」との記述でした。

当初はこの記述を詳細を取り上げようと思って取材を始め、犬養の顕彰施設である『犬養木堂記念館』(岡山県岡山市)や妙義寺様などの関係者に照会しました。しかし現在では、直接そのことを裏付ける証言は得られませんでした。


そこで川口先生に直接お伺いをすると、平成9〜11年当時の関係者に聞き取りをされた際の、貴重な調査票を見せていただくことができました。そこには梁山師に関して、犬養との記述の他に「曹洞宗議員」「東京都芝 青松寺安居?」と列記してありました。また川口先生からは「曹洞宗扶宗会扶宗講社」との関連や、当時の仏教誌『明教新誌』にあった梁山師に関する記事(「近傍の貧民へ米若干を施与 云々」)について、情報をご提供いただきました。


「曹洞宗扶宗会」と言えば『洞上在家修証義』編纂の母体となった結社であり、その代表者として有名な大内青巒居士は、『明教新誌』の発行人でもありました。

明治二十年に正式に結社された曹洞扶宗会の設立発起主唱者には、各県から選ばれた有力な禅者が名を連ね、その中には新井石禅、森田悟由、日置黙仙など、後の両本山貫主の他、扶宗会の実質的な幹事である在俗者の大内青巒、林謙吉などとともに、梁山師の名も見られます。

おそらく、調査票にあった「青松寺安居?」とあったのは、当時の両本山出張所(後の宗務局、現在の宗務庁)の機能が、発起主唱者の一人でもあった北野元峰の住職地・青松寺(東京都港区愛宕)に置かれており、扶宗会の集会も多くは青松寺で開催されていたこと。そして明治二十二年の改選で第三次末派総代議員(現在の宗議会議員)に選任されたこともあって、よく青松寺に留錫されていたために立った評判だと拝察されます。またその頃は、後に愛媛・瑞応寺住職も勤めた高田道見が安居し、「通仏教」を標榜して、僧俗を問わない「仏教青年会」を結成して活動していた時期とも重なります。中央集権性と開明的な空気が相俟って、情報と人流の拠点となっていた青松寺の山風に、梁山師も大いに触発されたのではないでしょうか。


明治二十一年には、扶宗会の精神を実践する「曹洞扶宗会扶宗講社」が全国の各寺院に設立され、わずか3年の間で1,110講社に達するなど、短期間で爆発的に伸張します。梁山師の住職地だった妙義寺も、もちろんその中に含まれます。

近年になって、宗報での「仏教の社会的役割を捉え直す」という連載(2019)の中で、島薗進氏が、瓜生岩とともに曹洞扶宗会を「貧民児童教育に着目して力を注いだ」と紹介、社会慈善の活動体として再評価されています。

先の『明教新誌』にあった梁山師の「施与」の記事も、この扶宗会と講社の活動に則ったものと捉えると、筋が通ります。

旧・益田幼稚園園舎(元の千体地蔵堂)


そして、梁山師が妙義寺に建立した「千体地蔵堂」。現在、仏像群は本堂の脇間に移されましたが、堂宇は昨年まで、境内に併設されている『益田幼稚園』の園舎に改装され使われていました。『益田幼稚園』は昭和5年に開設された常設託児所を起源とし、益田地区での幼児教育施設の嚆矢となりました。残念ながら旧園舎は昨年取り壊され、新園舎へと移行しましたが、梁山師や曹洞扶宗会の残した財産が、形を変えて今も地域に息づいている事跡と言えます。


最後に

最後に「犬養との禅談」について。

仏教教団の近代化においては、明治初期の教部省・大教院制の影響もあって、政教関係の調整が重要な課題でした。大内青巒も、「肉食妻帯」の太政官布告(明治五年)に尽力した鴻雪爪も、政府の要人や官僚との太いパイプがあったとされています。

梁山師が立志精進する過程で、当時の政党政治に尽力して市民社会の向上を志し、一方で儒仏にも明るい知識人で、しかも出生地が比較的近い犬養毅との知遇を得る機縁があったとしても不思議はない、と考えるのは飛躍が過ぎるでしょうか。


いずれにしても、この分野の研究の先駆を成した池田英俊氏が、

「(廃仏毀釈後の復興において)曹洞宗教団も真宗教団に劣らないほどの地方発展の勢力を有していた」(『明治仏教会・結社史の研究』)

と評したその一翼を担い、東京と地方拠点を往復をしながら、遊学の成果を当世風の宗意安心として地域に還元した「志僧」、それが明楽梁山師だった、そう言えそうです。

グローバルとローカルの狭間に生きる、現代の宗侶である私たちにとっても指針となる行跡ではなかったでしょうか。(文中、一部敬称略)


参考文献 『曹洞宗百年のあゆみ』 曹洞宗宗務庁 編 
『曹洞宗報』「仏教の社会的役割を捉え直す」連載掲載号 曹洞宗宗務庁 編
『明治仏教教会・結社史の研究』 池田英俊 著/刀水書房 刊
『萬歳山妙義寺史』 永見勝徳 編著
『明治期以降曹洞宗人物誌』(「愛知学院大学教養部紀要」所収) 川口高風 著
『「曹洞宗宗務局普達全書」の総目録』(「愛知学院大学禅研究所紀要」所収) 川口高風 著
『明教新誌』第一八九四号 明教社 刊
『中国地蔵尊巡拝』中国地蔵尊霊場会 編
『益田市史』 矢富熊一郎 著